序・それはある刹那の風景
ただそこにあるだけで価値があるもののように、少女はその手に身を任せようとしていた。
少し節くれだってごつごつとした大きな手は強烈な存在感を示し、少女は否応なくそれが『大人』のものであることを意識する。長い指はなめらかに少女の頭を、頬を撫でて、唇へと滑っていった。
少女は固く目を閉じる。
けれど、少女の柔らかな唇に触れようとした刹那、その指は動きを止めて――。
「……今日のことは、誰にも内緒でいよう」
言葉と共に、その手は離れていった。
その内側に含まれた拒絶に、気付かないはずがない。
声の主が浮かべた笑顔はあくまで温和で穏やかなもので、少女を見つめる視線の優しさも常と変わることはない。
大きな手が動いて窓が開けば、まるで先ほどまでの光景が嘘であったかのように空気が変わり、流れ込んできた風でオフホワイトのカーテンが翻った。
すべては否定された――――。
少女は俯いたまま、勢いよく教室から走り去る。
リノリウムの廊下に反響する自分の足音がやけに軽く聞こえて、それがかえって少女の心に現実感を取り戻させていた。
(気持ち悪い)
体の奥からこみ上げる吐き気。指先から、足先からずるずると抜けていく力。
(……気持ち悪い!)
不快感の理由もわからないままに、少女はただ走って、逃げた。
逃げ続けた。