勝手に閉まる :約3000文字
とある夜。男は友人の住むアパートを訪れていた。
小学校からの付き合いだったが、社会人になってからは互いに仕事が忙しく、連絡を取ることもめっきり減り、いつの間にか疎遠になりかけていた。それだけに、ふいに連絡を受けたとき懐かしい気分になり、男は会社帰りに缶ビールやつまみを買い込んで意気揚々と向かったのだった。
近況報告から始まり、話題は自然と子供時代の思い出へ移っていった。夏はプール遊びに、ザリガニ釣り。冬は室内に閉じこもり、もっぱらゲームに興じた――そんな記憶を次々と引っ張り出しては笑い合った。
ふと目を細めて友人の顔を見つめると、その表情には当時の面影がはっきりと残って見えた。それがまたどこか胸をくすぐるようで、男は無邪気に笑った。
だが、しばらく経ってからのことだった。
「ふー……ん?」
トイレに立ち、用を足して戻ってきた男が、再び床に腰を下ろしたそのときだった。
背後でカチャリ、と小さな音がした。
男は反射的に振り返り、思わず「えっ」と声を漏らした。すると向かいに座っていた友人は「ん?」と顔を上げた。
「どうした?」
「いや、ドアが……」
男はぐっと身を乗り出し、目を凝らした。
さっきまで少し開いていたはずのリビングのドアが、今はきちんと閉まっていた。別にあえて開けていたわけではない。無意識に閉め忘れていただけで、今の音でそのことに気づいたくらいである。
だが、ひとりでに閉まるというのはどういうことだろう。
男が眉をひそめてドアを見つめていると、友人は何を考えているのか察したらしく、「ああ」と呟いた。
「気にしなくていい」
「いや、自動ドア?」
男は友人のほうへ向き直り、冗談めかして訊ねた。
すると友人は吹き出すように笑った。
「そんなわけないだろ。普通のアパートだぞ」
「それはわかってるけどさ、建て付けでも悪いのか?」
男はそう言いながら床に手を置いた。それだけで感じ取れるとも思っていなかったが、少なくとも建物が大きく傾いているようには感じられなかった。窓も閉まっているから、風のせいでもないだろう。
「勝手に閉まるんだよ」
友人がビールに口をつけながら言った。言葉の端は缶でくぐもって聞こえたが、その口調は妙に平然としていた。
「勝手にって……なんでまた?」
友人はふっと笑うと、缶を床に置き「あー」と声を漏らしながら天井を見上げた。
「母親がさ……先月、死んだんだ」
「えっ」
交通事故だったという。母親が死んだ直後を思い返すと、自分でも情けなくなるほど気落ちしていた。葬儀を終えても一向に心の整理がつかず、しばらくは呆然としたまま職場と自宅を往復するだけの日々が続いた。
別にマザコンというわけでもない。自立してからは、母親と顔を合わせること自体そう多くはなかった。それでも――あるいはだからこそ、もう二度と会えないと思うと、身体の一部が抜け落ちてしまったような喪失感に襲われた。何をしても気分が上がらず、なんとなく死にたいと思うこともあった。
そうして気づけば、よく『死』について考えるようになっていた。
そんなある夜のことだ。部屋で一人、ぼんやりと過ごしていると、カチャリと小さな音がした。音の出所はトイレのほうだった。
そのときは特に気に留めなかった。家鳴りか何かだろう。あるいは隣の部屋の物音かもしれない――その程度にしか思わなかった。
だが、その音はその後、ほぼ毎晩のように聞こえてくるようになった。
さすがに気になって調べてみると、どうやらドアがひとりでに閉まっている様子。しかし、蝶番の具合や床の傾きなど一通り確認してみたものの、これといった原因は見当たらなかった。泥棒の仕業でもなければ、誰かが部屋のどこかに潜んでいるというわけでもない。
いったいどういうことなんだ。磁場の影響か、それとも湿気による木材の収縮か――そんなことを考えながらドアをぼんやり見つめていた、そのときだった。
ふいに一つの記憶が脳裏をよぎり、思わず「あっ」と声を漏らした。
母親だ。
冷蔵庫、トイレ、リビング。母親は昔からドアの閉め忘れには口うるさかった。『ほら、ちゃんと閉めなさい』と、何度注意されたことか。実家を出て一人暮らしを始めてからは、冷蔵庫や玄関のドアはともかく、室内のドアは開けたままのほうが効率的だと思い、いつしかドアを閉める習慣はすっかり抜け落ちていた。
そんなだらしない息子を見かねて、母親が勝手にドアを閉めているのだ。
「――で、なんか元気出てきてさ。まだ母親がここにいるんだって思ったら、急に昔のことまで思い出して、懐かしくなってお前を呼んだんだよ」
友人はそこまで話すと、どこか照れくさそうに笑い、皿の上のつまみを一つ口へ放り込んだ。
男は「ほー」と感嘆の息を漏らした。
「なるほどなあ……。確かに昔、お前の家に遊びに行ったときも、よく注意されてたもんな」
「そうそう。ははは、さすがに人前では勘弁してほしかったけどなあ」
「何度注意されても覚えないお前もお前だけどな」
「うるせえ。子供だったんだから仕方ないだろ」
二人は笑い合い、自然と缶を掲げた。缶同士が軽くぶつかって、乾いた音が部屋に響いた。言葉にせずとも、それが母親の冥福を祈るためのものだということは、二人とも分かっていた。
「……あれ?」
しばらくして、男がぽつりと言った。
「ん?」
「でも、お前のおふくろさんって――」
そこまで言ったところで男はゆっくりと口を閉じた。
「なんだよ?」
友人が怪訝そうに訊ねた。だが男は答えない。閉じた口を小さく蠢かすだけで続きを言おうとしなかった。
「おーい?」
「……」
「なんだよ、急に……。あっ、吐きそうなのか?」
男は首を横に振った。
「じゃあ、なんだよ。表情だけで当てろって?」
友人は笑い、缶に口をつけた。
「おーい? ……いや、やっぱり具合悪いんじゃないのか。顔色悪いぞ」
男は小さく頷いた。それから、すっと立ち上がると軽く手を上げ、『帰る』というふうに合図した。
そして背を向け、そのまま足早に部屋を出ていった。
「おー、気をつけてなー」
友人はそう声をかけたものの、小首をかしげながら苦笑した。
それから缶に口をつけ、ふと開けっぱなしのリビングのドアに視線をやった。そのまま目を細めて見つめ、やがてふっと笑うと再び小さく缶を掲げた。
アパートの外に出た男は、足をもつれさせながら近くの電信柱まで走った。
手をつき、ようやく口を開けると大きく息を吐いた。肩を激しく上下させ、浅く速い呼吸を何度も繰り返した。
それから男は震える手を顎に当て、何度も口を開けたり閉じたりした。
――動く……。
……さっき勝手に閉じたんだ。こう言おうとした直後に。
『おふくろさんって注意したあと、必ずお前に自分で閉めさせたよな』
男はゆっくりとアパートを振り返った。
開けっぱなしの玄関のドアが、静かに閉まっていく。一定の速度で、風が吹いていないにもかかわらず。
そしてドアがパタンと閉まる、その直前――ドアの縁にかかった青白い手が、一本指を立てた。
まるで『黙っていろ』と言うように。




