外の人間
歩才捷の「仮住まい」は、およそ三百平米(平)ほどあった。
この豪華なマンションは、各フロアに一戸しか入っていない。初めてここへ来た日、林加依はあまりの広さに頭がぼんやりとしていた。エレベーターの扉が開くと、さらにもう一つの扉。その先に広がるリビングを、マンションのロビーだと勘違いしたほどだ。
何より彼女を驚かせたのは、ここが「二基のエレベーターで一戸」という仕様だったことだ。彼女が今まで知っていたのは、二基のエレベーターを六世帯で共有する世界だった。
余分な方のエレベーターは、キッチンに近い小さな寝室へと通じている。こちら側の住人たちからは「使用人専用エレベーター」と呼ばれているものだ。
加依は思わず「私はその狭い方の部屋でいいです」と言いそうになったが、彼女の眠る場所は、すでにロックオンされていた。
引っ越し業者の青年たちは、あっさりと作業を終えて立ち去った。
「荷物、ずいぶん少ないのね」
才捷が首を傾けて彼女を見た。加依は、こんなわずかな荷物でここへ来るべきではなかったと思っていた。豪華な内装に、出稼ぎ労働者の定番である「色とりどりの安っぽいプラスチックハンガー」は、あまりにも不釣り合いだった。
ここでは乾燥機が当たり前だし、コンシェルジュによるドライクリーニング・サービスもある。
すべての部屋に大きな落地窓があり、それは賃貸住宅にあるような、太陽を追いかけるための小さな窓とは、存在理由そのものが違っていた。
「……これで、満足かしら?」
才捷が背後から加依の体を閉じ込めた。千万(元)もする走査型電子顕微鏡(SEM)が設置された部屋で、加依は材料の破断面を覗き込んだ瞬間、そのまますっぽりと才捷の腕の中に抱きしめられた。
「これ……どうしても、必要だったんですか……」
加依は胸元に回された手を指差した。
「あなたが汗をかいた時の、混ざり合った匂いが一番最高なの」
(ディフューザーか何かだと思ってるわけ!?)
加依は心の中でツッコミを入れながらも、背中から伝わる柔らかでしなやかな感触に、抗いがたい心地よさを感じていた。女性とこれほど親密になるなんて、意外な発見だった。
才捷は精密機器のために、床を補強させ、防音工事も完璧に終わらせていた。
「……これ、なんて綺麗なの……」
熱を帯びた空気の中で、加依はモニターに映し出された肝癌サンプルの鮮明な構造に見惚れていた。
「あなたが気に入るって、分かってたわ」
才捷は、ただ加依のうなじに顔を埋めることに没頭していた。
呼吸が近すぎる。スマホが急き立てるように震えた。加依が手を伸ばそうとすると、才捷の手がその上から重なった。
「仕事?」
画面には、職場のグループチャット。加依の名前はバラバラ死体の鑑定チームに、明確な「役職」を伴って追加されていた。
「あなたの労働には、あなたの名前が必要よ」
才捷が加依のうなじを軽く噛んだ。
「これは、ほんの始まりに過ぎないわ。さあ、メールを見ないと。仕事が終わらなくなっちゃうわよ?」
メールを開くと、あの気難しい相手側の法医から、すべての資料が正式に引き継がれていた。
腕の中の女が熱を帯びているのは、自分の愛撫のせいか、それとも新しいゲームの衝撃のせいか。才捷にはどちらでもよかった。その女が香りを放ち、自分の手の内にある限り。
才捷の指が、加依の肌をぐっと押し込んだ。心拍が跳ね上がるのが、指先を通じて才捷に伝わる。
「……あなた、私と話したいことがあるんじゃなかった?」
「なぜ、私なんですか。あなたのような人なら……っ、はぁ……もっと、他に選択肢は……」
「前にも可愛い子たちがいたんだけど、なぜかみんな逃げちゃったのよね。私、こんなに完璧なのに」
(……『なぜか』ですって!? 本気で言ってるの!?)
「今回は、ちょっと趣向を凝らして、あなたを逃がさないようにしなくちゃね」
才捷は加依のシャツのボタンを外し、襟元を後ろへ引き下げて、その隙間に顔を寄せた。
「……あなたたちのような人は……もっと、家柄の釣り合う相手と……組んで、大きくしていくべきじゃ……」
思考は支離滅裂だったが、これこそが彼女の抱いていた現実的な疑問だった。
才捷は加依の腰を抱え上げ、そのまま掃き出し窓へと向かった。一瞬の浮遊感の後、加依の上半身は冷たいガラスに押し付けられていた。
精密機器からわずか二メートル。ガラスには彼女の吐息で白く霧が立ち込めては消える。
(キスもまだなのに、いきなりこんな……!?)
「あなた、本当に知らないの? うちのグループは業界で最大なのよ。他の『不釣り合いな』連中はみんな、私たちがいないと、成り立たないのよ」
才捷の手のひらが、ガラスに張り付いた加依の首筋を這い上がる。
「あなたには、私を裏切る資本なんてないでしょう?」
興奮なのか、恐怖なのか。窓の下を歩く通行人たちの姿が異常なほど鮮明に見えた。
「あなたの方こそ、疑問を持つより先に、仕事に対する『姿勢』を変えることを考えなさい。うちの家では、外の人間に上に立たせるような女は――一人もいないの。」
才捷は加依の髪に顔を埋め、何かを吸い込むように深く呼吸した。ネックレスを強く押し下げる。通されていた指輪が、加依の胸元に真っ赤な印を刻んだ。
その刺痛が、加依の理性をかき乱す。
そこで彼女は気づいた。
――連れてこられたのではない。自分が、拒絶しなかったのだ。
一歩も退かず、むしろ自ら踏み出した。乱れる呼吸は、恐怖のせいだけではなかった。
胸元の赤い印を見つめながら、彼女は確信した。
――私自身も、この危険な関係を、渇望していたのだと。
才捷は後ろへ手を伸ばし、加依の仕事用スマホを掴むと、それを軽くガラスに打ちつけた。
画面が点灯する。
グループチャットは混乱していた。
三つの遺体の関連性は何度も覆され、誰一人として結論を出せずにいる。
「……見えた?」
加依の視線は画面に釘付けになった。
指先は動かないが。
逃げようともしなかった。
「それを、正しなさい」
才捷は加依の肩に顔を寄せ、その柔らかな肌を強く噛んだ。
そこで、林加依はようやく完全に目が覚めた。
――そもそも、ここから、通りを歩く人々の顔など、何ひとつ見えはしなかったのだ。




