探偵は大家族
この家には、普通の人間がいない。
というと、だいたいの人は「またまた」と笑う。
だが、笑っていられるのは最初だけだ。
一時間もいれば、だいたい黙る。
三時間もいれば、たいてい帰る。
一日いた人間は、二度と来ない。
理由は簡単だ。
全員、天才だからである。
「ねえ兄ちゃん、今の足音、三人分だったよね?」
玄関の外を見もせずに、妹が言う。
俺は新聞から目を上げることなく答えた。
「二人だよ。片方は重心が左に偏ってる。杖か怪我」
「え、でも三つ聞こえた」
「三人目は猫」
「あ、ほんとだ」
カラカラ、と玄関の戸が開いた。
「すみませーん、配達で……」
入ってきた配達員が、一歩踏み込んだところで止まる。
視線の先には、俺たち兄妹ではなく――床。
玄関の土間に、泥の足跡が三つ。
人間二つ、猫一つ。
妹が小さく笑う。
「ね?」
配達員は何も言わなかった。
いや、言えなかったのだと思う。
この家に入ると、たいていの人間は言葉を失う。
改めて説明しておこう。
この家には、現在九人が住んでいる。
全員血縁の大家族。
そして、全員がそれぞれ違う分野の“天才”だ。
長男は数理。
長女は言語。
次男は記憶。
三男は観察。
四女は直感。
五男は機械。
六女は心理。
七男は身体。
そして――
俺は、そのどれでもない。
「おかえりー」
居間に入ると、すでに全員揃っていた。
平日の昼間だというのに、誰一人として学校にも職場にも行っていない。
それでも、この家は成り立っている。
むしろ、外よりよほど効率的に。
「今日の来客、三件だよ」
長女が言う。
「一件目は浮気調査、二件目は盗難、三件目は――」
「殺人未遂」
六女が言葉を引き取った。
誰も驚かない。
驚くのは、いつも依頼人のほうだ。
「もう来てる」
三男が、窓の外を見ながら言う。
「心拍数上がってる。呼吸浅い。かなり焦ってる」
「じゃあ先にお茶淹れとくね」
四女が立ち上がる。
「毒は入れないでね」
「入れないよ」
軽口が飛ぶ。
誰も笑わない。
これが通常運転だからだ。
インターホンが鳴る前に、七男が玄関に向かう。
「来るよ」
そして、ちょうどそのタイミングでチャイムが鳴る。
完璧な一致。
もはや偶然ではない。
日常だ。
依頼人は、三十代後半くらいの男だった。
スーツは上等だが、着方が乱れている。
ネクタイが曲がり、ボタンが一つ掛け違っている。
焦っている証拠だ。
「た、助けてください……!」
玄関に入るなり、そう言った。
七男は靴のまま上がろうとするのを止める。
「靴」
「あ、すみません!」
男は慌てて靴を脱ぐ。
その動きのぎこちなさを見て、六女が小さく呟く。
「隠し事、三つ」
長男がすぐに返す。
「いや、四つ」
俺は何も言わない。
言う必要がないからだ。
男は居間に通され、座る前から話し始めた。
「昨夜、家に侵入者が……! 殺されかけたんです!」
「殺され“かけた”ってことは、生きてるんですね」
長女が淡々と言う。
「は、はい……!」
「で、何を盗られたんですか」
「な、何も……」
その瞬間、五男が笑った。
「嘘」
短く、はっきりと。
男の顔色が変わる。
「い、いや、本当に――」
「盗られたんじゃない。持っていかれた」
六女が言う。
「しかも、自分から渡してる」
沈黙が落ちる。
男の喉が、音を立てて動いた。
俺は、その様子をぼんやりと見ていた。
いつもの光景だ。
誰かが見抜き、誰かが補強し、誰かが結論に近づける。
この家では、推理は“共同作業”だ。
ひとりで解く必要がない。
むしろ、そのほうが遅い。
「……で?」
長男が、ようやく口を開いた。
「本当は、何を持っていかれた?」
男は、しばらく黙っていた。
逃げ道を探すように、視線を泳がせる。
だが、この家に逃げ道はない。
あるのは、観測と、解析と、断定だけだ。
「……データです」
やがて、絞り出すように言った。
「会社の……極秘の」
「種類は?」
「……AI関連の、研究データで……」
その言葉に、全員の空気がわずかに変わった。
興味を持ったときの、微細な変化。
「なるほどね」
五男が立ち上がる。
「じゃあ犯人、だいたいわかった」
「早すぎるでしょ」
四女が笑う。
「いや、条件が揃いすぎてる」
三男も頷く。
「侵入経路、特定できる」
「心理的にも辻褄合う」
六女が続く。
まるで、一つの頭脳みたいに。
男が呆然とする中、俺は一人、違うことを考えていた。
この家は、確かに天才の集まりだ。
推理も、分析も、解決も、すべてが速い。
正確で、無駄がない。
――だからこそ。
「……それ、犯人じゃない」
俺は、初めて口を開いた。
全員の視線が、一斉にこっちを向く。
ほんの一瞬。
静寂。
「……なんで?」
長男が聞く。
少しだけ、興味を含んだ声で。
俺は、肩をすくめた。
「簡単だよ」
テーブルの上の湯のみを見る。
まだ手をつけられていない。
「この人、死ぬ気で嘘ついてるから」
空気が、止まった。
ほんのわずかに。
この家の“推理”が、初めてズレた瞬間だった。




