(仮)カメムシってどこの虫
上司に「君ひとりしかできない仕事だと困るから人を育ててほしいんだよね」と言われて早一年。少し特殊な仕事のせいで、現場経験がない人間には何をしているのかさっぱり分からない。だから新人を入れるだけ無駄だから現場からひとり私にください、と言い続けてこれも一年だ。
そしてついに、彼女で三人目の『新人』さんとなる。
「そう、ここの計算にはここの表のこの数値が必要になるの。ひとつでも間違えると全部ずれるから、必ずコピペしてね。手打ちしないでね」
そう、伝えた私の目の前で、彼女は当たり前のように手で数字を打ち入れて、桁数をまちがえた。
「うん、あのね、コピペは分かる?」
「はい、分かりますよ」
「じゃぁこの数字ね、ここ、この合計値の列AZの11のセルね。ここをコピーして、こっちの表のD3に貼り付けてくれる?」
「はぁい」
「………うん、それはAY11だね。AZ11をお願いね。この合計値、って書いてある列ね」
「はぁい」
「うん、貼りなおしたらいったん休憩しよう。とりあえず、コーヒー淹れてきていいかな?飲み物ある?」
「ありますよ。どうぞー」
にっこりと笑った彼女に私も若干ひきつった笑いで返し、給湯室へお湯を沸かしに行く。
「大丈夫、まだ耐えられる。たとえ年上の新人さんがアレでも、まだ耐えられる。前のふたりも似たようなもんだった……」
私に面接をさせてくれれば良いのだが、どうにも上司が採用する新人さんが少しばかり、こう、仕事が特殊でできない、以前の問題なのだ。
お湯が沸くのを待ちつつ、こわばった体をほぐすためにスクワットを繰り返す。勢いをつけずにゆっくりと腰を下ろし、少し止めてゆっくりと上がる。筋肉の動きにだけ集中していれば、先ほどまでのイライラもほんの少しだけ落ち着いて行く。
かちりと音がしてポットが沸騰したよと教えてくれる。
「あー……コーヒー。コーヒー無いと死んじゃう、でも飲み過ぎて胃が逝きそう」
とてもではないが新人さんの前では言えないことをひとりごちながらこぽこぽと、ドリップパックに湯を軽く注ぐ。ふわりと立ち上る良い香りにほっと、口からため息がこぼれた。
むらし時間は二十秒。ここはシンクに手を置いて壁腕立てならぬシンク腕立てをする。ゆっくり下がってゆっくり上がって、だいたい十回で二十秒だ。
短いリフレッシュ時間の終わりを名残惜しく感じつつもお湯を注いでコーヒーを淹れ、水切りにパックを放り込んでひと口だけ先にいただく。
「はぁ……よし、行くか……」
別に嫌いなわけじゃない。時間がかかっても、辞めずにいてくれるなら何とか育てる覚悟もある。だが、辛くない、わけではないのだ。
「ただいま」
「あー、おかえりなさい」
ぱりぱりとおせんべいをかじりながらお茶を飲んでいた彼女がこちらを振り向かずに答えた。視線の先を追うと、網戸にカメムシがついている。
「ん?カメムシ?」
「カメムシ?」
「ああ、うん。その窓の外のそれが気になるんでしょう?カメムシ」
「え。これがカメムシですか」
驚いたように彼女が目を丸くした。
「うん、カメムシ。見たこと無かった?」
「いいえー。家の窓にもたまに貼り付いてます。カメムシって名前も知ってますけど、初めてこれだって知りました」
「そっか、それがカメムシだよ」
特に虫に興味がなければ名前を知らないことなどざらにある。そういうものかと思って席に戻り彼女のパソコンを覗き込むと、相変わらずD3には『AY』11の数字が貼られたままになっている。
軽い頭痛を覚えながら何度か瞬きをしつつコーヒーをぐっと飲み、精神安定用のちょっとだけお高い七十パーセントのチョコレートを口にひとつ放り込み、ほんの少しだけ楽しんでまたコーヒーで飲み込んだ。
「それじゃ、続き始めようか。これね、さっき貼り直してねってお願いしたところ、まだAY11のままだからAZ11を貼り直そうか」
「カメムシってどこの虫ですか?」
「………ん?」
「カメムシって、どこの虫ですか?」
ぴたりと、思考が止まった。どこの虫。ドコノムシ。カメムシって、何処の虫。
「え、どこ?」
「はい、どこ」
思わず彼女の顔をまじまじと見ると別段冗談を言っているわけではないらしい。きょとんと、不思議そうにこちらを見つめている。
「あー……どこ、うん。あのね、アリってどこの虫って言われて答えられますか?」
「え、どこの虫なんですか?」
「そう来たかぁぁ………」
思わず天を仰いだ。これは、駄目なやつだ。
「そうだね、よくその辺で見かけるいわゆる『大きいアリ』のクロオオアリなら日本のアリって言えるし、ヒアリなら中南米だね。種類によって世界各地にいるかな」
「えー、そうなんですかー?」
「うん。だからカメムシも、種類によって日本にいる種類もあればアマゾンの奥地にいるカメムシもいるよ」
「え、アマゾンに虫いるんですか!?」
「う、うん、いるね。日本より色々いるかもね………」
「え~!マジで~?」
目を丸くした彼女が窓の外に貼り付いているカメムシをぱっと見た。ちなみに、網戸でだらんとしているあの緑色はよくその辺で見かけるツヤアオカメムシだ。
「えー、アマゾンなんだぁ」
「………えっと、お茶、今日は何持ってきたの?」
「今日は紅茶ですー」
「そっか」
まったくこちらを振り向こうとしない彼女の背中を見つめながら、ばれないように小さくため息を吐いた。
お読みいただき、ありがとうございました。
色んな人がいますよね…。
またお会いできましたら幸いです。




