⑳ 少年ヒトラー
そこは、ウィーン美術アカデミーにほど近い、公園のベンチだった。
とある少年がそこに座り、スケッチブックを開いて絵を描いていた。
それこそが、雪子がターゲットとした人物だった。
間違い無い。アレがアドルフ・ヒトラー少年だわ。
確信を持って、彼女はゆっくり彼に近づいて行く。
すると、とある人物が、雪子より先にヒトラー少年に近づいて行き、声を掛けていた。
それは銀髪をオールバックにして、キレイに撫でつけ、黒いコートを着た、上品な感じの紳士だった。ただ、後ろ姿なので顔が見えない。
しかし雪子は、何故かその背中に、見覚えがあるような気がしたのだった。
彼女は用心深く、出来るだけ二人の近くまで行き、その会話に耳を澄ませてみた。
「なかなか良く描けていますな。」と紳士。
「建物の形を正確に描く事が好きなんですよ。」と少年。
「おや、周りの人物は、描かれないのですか?」
「ボクは人物画が、嫌いなんです。」
「それはまた、何故なんでしょう?」
「それは、人物が移ろいやすいモノだからです。描いた側から変化して行く。だから描写がその変化に追いつかず、時間をかけて描けば描く程、出来た作品は、どんどんウソになって行く…その点、建物は安定した存在だ。歴史的に相当古くない限り、経年劣化も大したことは無い。だからボクは、好んでソレを描くのです。」
「なるほど。実に理に適った思考ですな。」
「オジサンは、分かってくれるのかい?」
「ええ、なんなら常日頃、私が考えていることに、実に良く似ています。」
「嬉しいなあ。アカデミーの連中と来たら、てんでボクの考えを理解しようともしない…あいつら覚えていろよ。いつか、目にモノ見せてやるから。」
「ねえ、キミ。そんな下らない事より、もっと建設的な事に、人生の時間を、使うべきなのでは?何しろ、キミの生きる時間は、有限なのですから…。」
「オジサンは、まるで、自分の時間だけは、無限に有るみたいな口ぶりだね?それで例えば、ボクにはどんな人生が相応しいと?」
「どうやらキミは、緻密にモノを観察し、それを正しく把握出来る上に、洞察力にも優れているようですね。そうだ、政治的指導者なんて、如何ですか?」
「ソレは、昔、我が父からも期待された事だ。でもボクは、絵画や音楽などの、芸術の方に興味があったんだ…何故かな。不思議と、オジサンに言われると、何だかヤル気が湧いてくるな?アナタは魔法使いか何かなのか?」
「私は魔法使いなどではありません…アナタには打ち明けましょう。私はタイムトラベラー…時間を旅する者なのですよ。」
そう言いながら、その紳士は、チラリとその横顔を、雪子の方に覗かせた。
雪子は愕然とした。
どおりで、背中に見覚えがあるはずだ。
その声、その横顔。
その紳士は永遠の35歳…。
サン・ジェルマン伯爵その人だったのだから!




