第九章 動員
動員は、静かに始まった。
号令も、檄文もない。
あるのは、曖昧な日時と場所、そして「各自判断で参加」という一文だけだった。
恒一は、それを見てすぐに分かった。
これは、表に出ない行動だ。
集合場所は、蒼浜市郊外の工業団地跡。
再開発が頓挫し、雑草だけが伸び続けている一角だった。
夜九時。
街灯は少なく、車のライトがなければ顔も判別できない。
集まったのは、二十数人。
若い者が多いが、年齢も所属もまちまちだった。
学生風、作業員、元自衛官らしき男。
明らかに「思想」だけで繋がっていない集団だった。
「今日は、抗議じゃない」
現地責任者が、低い声で言った。
「邪魔が入らないようにするだけだ」
その言葉の意味を、誰も聞き返さなかった。
トラックの荷台から、ヘルメットと軍手が配られる。
木製の角材。
工具箱。
武器とは言えない。
だが、事故が起きてもおかしくない代物だった。
恒一は、黙ってそれを受け取った。
ターゲットは、再開発反対派の拠点とされる古い事務所だった。
中小の市民団体。
表向きは、環境保護と労働者支援を掲げている。
「左」の匂いは、確かにする。
だが、革命家でもテロリストでもない。
建物の前に着くと、すでに灯りが点いていた。
中に人がいる。
一瞬、ためらいが走った。
その隙を、誰かの声が切り裂いた。
「やるぞ」
合図は、それだけだった。
窓ガラスが割れる音。
警報が鳴る前に、扉が蹴破られた。
恒一は、中に踏み込まなかった。
外で、周囲を警戒する役目を自分に課した。
中から、怒号と悲鳴が聞こえる。
殴る音。
倒れる音。
だが、銃声はない。
刃物も使われていない。
ぎりぎりの線を、誰かが計算している。
数分後、全員が引き上げた。
負傷者は出ていない。
少なくとも、こちら側には。
撤収後、誰も勝利を語らなかった。
写真も撮らない。
動画も回らない。
まるで、最初から「なかったこと」にする前提の行動だった。
帰り際、恒一のスマートフォンが震えた。
妹、美咲からのメッセージ。
《今日、知らない人が楽屋に来た》
胸が、強く脈打った。
《政治の人っぽかった。名前は言わなかった》
怒りが、遅れて湧いてきた。
だが、それは先ほどの行動とは質が違った。
これは、個人的な怒りだ。
国家でも、思想でもない。
事務所に戻ると、先生がいた。
「よくやった」
その一言が、全てを物語っていた。
「次は、もっと大きくなる」
恒一は、何も言わなかった。
動員とは、命令ではない。
選択でもない。
流れだ。
そして、一度流れに乗った人間は、
どこまで行くのか、自分では決められなくなる。
その夜、恒一は初めて、
「日本のため」という言葉を、
少しだけ疑った。
だが、疑ったこと自体を、
誰にも言わなかった。
言葉にした瞬間、
もう戻れない気がしたからだ。




