第七章 正義の置き場
翌朝、恒一は早く目が覚めた。
夢は見ていない。
だが、身体の奥に残った違和感が、眠りを拒んでいた。
港湾地区の倉庫。
倒れた棚。
床に散らばった書類。
あの場で殴られた男たちは、「敵」には見えなかった。
叫ばない。反撃しない。
ただ、巻き込まれたという顔をしていた。
――あれは誰だった。
問いは、今になって重くのしかかってくる。
昼過ぎ、団体の事務所に呼び出しがあった。
呼んだのは、先生ではなかった。
見知らぬ男。
四十代半ば。
スーツ姿だが、ネクタイは緩めている。
言葉遣いは丁寧で、視線だけが鋭かった。
「倉橋君だね」
名前を、正確に知っていた。
「君は、筋がいい」
またその言葉だ。
評価。
便利な承認。
「昨日の件、どう思った?」
試すような口調だった。
「日本のためだと思っています」
反射的に出た答え。
だが、自分でも驚くほど、声に力がなかった。
男は、少しだけ笑った。
「日本、ね」
それ以上、深掘りはしなかった。
代わりに、机の上に資料を置いた。
港湾再開発計画。
外資比率。
雇用創出効果。
どれも、新聞で見かけるような数字だった。
「反対派が騒ぐと、計画が遅れる」
「遅れると、損をする人間がいる」
「誰ですか」
恒一は、そう聞いてしまった。
男は、即答しなかった。
その沈黙が、答えだった。
「国家は、大きい」
男は、ようやく言った。
「だから、誰かが代わりに怒らなきゃいけない」
怒り。
その言葉が、久しぶりに真正面から突き刺さった。
自分は、怒る役なのか。
考える役ではなく。
決める役でもなく。
外に出ると、先生が待っていた。
「余計なこと、考えるな」
叱責ではない。
忠告でもない。
管理だった。
「君は、よくやってる」
それが、ここでの最上級の褒め言葉だ。
その夜、妹の美咲が帰宅した。
珍しく、疲れた顔をしていた。
「変な仕事、断った」
唐突に、そう言った。
「何の?」
「政治っぽいやつ。よく分かんないけど」
恒一の胸が、少しだけ軽くなった。
だが同時に、別の重さが生まれた。
守れたのか。
それとも、たまたまか。
風呂場で、鏡を見る。
そこに映っているのは、怒りに満ちた青年ではなかった。
判断を保留されたまま、
役割だけを与えられた男だった。
正義は、まだ胸の中にある。
だが、置き場が分からない。
誰のために怒るのか。
何のために殴るのか。
答えを出すには、
この場所は、あまりにも静かだった。




