第四章 金の匂い
最初に違和感を覚えたのは、金の話だった。
街宣やデモ妨害の後、恒一たちは必ず同じ居酒屋に集まったが、ある夜、先生は店を変えた。駅から少し離れた、雑居ビルの二階。看板のないスナックで、入口には黒服の男が立っていた。
「今日は、挨拶だけだ」
先生はそう言った。
中にいたのは、団体のメンバーではない男たちだった。年齢はまちまちだが、共通していたのは、言葉数の少なさと、手首に見える高級時計だった。
乾杯はなかった。
酒は、勝手に注がれた。
「最近、若いのが元気だな」
向かいに座った男が、恒一を見て言った。
声は低く、抑揚がない。
「日本のためです」
恒一は、反射的にそう答えた。
男は笑わなかった。
代わりに、先生を見た。
「使えるな」
その一言で、話は終わった。
帰り道、恒一は先生に聞いた。
「今の人たちは……?」
「支援者だ」
先生は、それ以上説明しなかった。
支援者。
その言葉は、恒一の中で都合よく処理された。思想に共感する大人たち。金を持っているが、表に出られない人間。そういう存在は、想像の範囲内だった。
だが、数日後、封筒が渡された。
街宣の準備費。
交通費。
雑費。
中身は、現金だった。
領収書は、不要だった。
「活動には金がいる」
先生は、事務的に言った。
恒一は、疑問を飲み込んだ。
父の世界でも、母の世界でも、金は裏で回るものだった。表に出ない金があること自体は、異常ではない。
異常なのは、誰のための金かが、曖昧なことだった。
ある日、恒一は父の事務所を訪ねた。
用件はなかった。ただ、顔を出しただけだ。
応接室には、見覚えのある男がいた。
スナックで会った、あの支援者の一人だった。
二人は、何も言わずに目を合わせた。
父は、紹介しなかった。
「最近、忙しそうだな」
父は、そう言ってタバコに火をつけた。
「日本のために」
恒一は、同じ答えを返した。
父は、煙を吐きながら言った。
「日本ってのはな、便利な言葉だ」
それだけだった。
事務所を出た後も、その言葉が頭に残った。
便利。
何にとって、便利なのか。
数週間後、別の行動があった。
デモ妨害ではない。
特定の人物への「注意喚起」だった。
場所は、郊外のマンション。
相手は、大学の准教授。反戦集会で名前が出ていた男だ。
「手は出すな」
先生は、念を押した。
だが、玄関先で口論になり、押し合いになり、男が転んだ。
頭を打った。
血が出た。
救急車が来る前に、恒一たちは離れた。
ニュースにはならなかった。
警察も、動かなかった。
翌日、また封筒が渡された。
金は、少し増えていた。
恒一は、その重さを手の中で感じた。
思想の重さではない。
現実の重さだった。
自分は、何をしているのか。
誰のために、声を上げているのか。
問いは浮かんだ。
だが、口には出さなかった。
疑問は、裏切りだ。
そう教えられてきた。
その夜、妹の美咲からメッセージが来た。
「最近、変な人から連絡来るんだけど」
短い文の後に、知らない番号のスクリーンショット。
恒一は、画面を見つめたまま、動けなかった。
金の匂いは、
いつの間にか、
家族の方へ流れ始めていた。




