――選ぶのは、誰か
数年後。
蒼浜市は、相変わらず「基地の街」と呼ばれている。
統計上は、少しだけ静かになった。デモの件数は減り、逮捕者数も下がった。市の広報誌には「対話の成果」という言葉が並ぶ。
だが、何かが解決したわけではない。
対立は形を変え、分散し、可視化されなくなっただけだ。
街宣車は減り、代わりに動画が増えた。
過激な言葉は減り、代わりに「炎上しやすい編集」が洗練された。
右も左も、以前より“大人しく”、そして“稼ぎやすく”なった。
恒一の名は、資料のどこにも残っていない。
危険人物リストからも、運動史の年表からも、ネットのまとめからも。
彼は、完全に「なかったこと」にされた。
それを、成功と呼ぶ人間もいる。
国家は安定を得た。
組織はリスクを回避した。
メディアは次の物語を見つけた。
街は、今日も平然と朝を迎えている。
だが、ときどき――
基地のフェンスの前で、
あるいは選挙ポスターの前で、
あるいはSNSのコメント欄で、
同じ種類の怒りを抱えた若者が立ち止まる。
彼らは、恒一を知らない。
知る必要もない。
ただ、同じ問いを抱えている。
この国のために、何をしていいのか。
そして、何をしてはいけないのか。
叫ぶことか。
殴ることか。
稼ぐことか。
黙ることか。
あるいは、
誰にも語られない選択を、自分一人で引き受けることか。
この物語は、答えを用意しない。
恒一の選択が「正しかった」のかどうかも、
右翼が間違っていたのか、
左翼が正しかったのか、
国家やメディアが冷酷だったのか、
何ひとつ断定しない。
ただ、一つだけ残る。
誰かが壊れなければ、回らない正義がある
という事実と、
壊れずに終わる選択も、確かに存在する
という可能性だ。
次に怒りを覚えたとき、
次に「日本のため」という言葉を聞いたとき、
あなたは、どの物語を選ぶだろうか。
語られる側か。
消費する側か。
それとも――
誰にも語られない選択を、静かに引き受ける側か。
物語は、ここで本当に終わる。
だが、
日本の将来を託す選択は、
今も、あなたの手の中にある。




