第三十五章 誰も語らない朝
朝は、予定どおりに来た。
蒼浜市の空は低く、雲は切れ目なく流れている。通勤の波が駅に吸い込まれ、シャッターが上がり、ラジオが同じニュースを読み上げる。事故も事件も、まだ報告されていない。
恒一は、もうそこにいなかった。
残されたのは、何も起きなかったという事実だけだ。
警察は簡潔に処理した。
過激思想の兆候は「過去のもの」。
外部への波及は「確認されず」。
公表は最小限。
国家は、静かに安堵した。
母は、報告書を一枚閉じた。
私情は挟まない。
挟めば、任務が歪む。
それが彼女の選んだ生き方だった。
父は、朝の新聞を読まずに畳んだ。
裏の連絡網には、もう名前が流れない。
取引は守られた。
守られたのは、世界の均衡だけだ。
妹は、ステージに立った。
照明の中で、歌った。
兄の話題には触れない。
触れれば、消費されると知っているからだ。
左翼の内部チャットでは、短い確認が回った。
《終了》
《二次被害なし》
《次の案件へ》
誰も、勝利とは書かなかった。
テレビは別の話題を映した。
ネットは別の怒りを育てた。
物語は、滞りなく更新される。
恒一の名は、どこにも出ない。
それが、彼の選んだ終わり方だった。
愛国心は、最後まで彼の内側にあった。
叫ばず、掲げず、奪わない形で。
誰かの朝を壊さないという、最も地味な形で。
街は、何も知らない。
だが、何も失っていない。
正義は、今日も売られ、編集され、請求される。
その裏で、語られない選択が、確かに一つ、完結した。
蒼浜の朝は、静かに進む。
——物語は、ここで終わる。
だが、選択は、読む者の側に残されたままだ。




