第三十四章 静寂の深さ
介入が引いたあとの街は、驚くほど普通だった。
恒一は歩いた。靴底がアスファルトを擦る音だけが、やけに大きく聞こえる。港から市街へ続く道。コンビニの自動ドアが開き、閉じる。誰かの笑い声。配達のトラック。生活は、何事もなかったように継続している。
それが、この国の強さだと、彼は思った。
誰かの思想が燃え尽きても、朝は来る。
小さな公園のベンチに腰を下ろす。ブランコが風で揺れている。子どもはいない。夜露に濡れた鉄の匂い。ここで何かを始める人間はいないし、終わらせる人間もいない。
恒一は、深く呼吸した。
怒りはない。焦りもない。
あるのは、澄んだ静けさだけだ。
彼は自分の一生を、短くなぞった。父の背中、母の沈黙、妹の笑顔。団体の夜、街宣の拡声器、罵声と拍手が混じる交差点。すべてが、過去形に変わっていることに気づく。
もう、どこにも戻らない。
だが、捨ててもいない。
ポケットの中の小さな日の丸に、指先が触れた。布は温度を帯びている。体温だ。誰かの理念ではなく、自分の体の熱。
――大和魂とは、耐えることだ。
祖父が言っていた言葉を思い出す。戦場の話ではなかった。負けた日の畑仕事の話だ。誰も褒めず、誰も記録しない場所で、黙って続けること。
恒一は、立ち上がった。
選択は、もう終わっている。
あとは、実行ではない。
完結だ。
スマートフォンの電源は入れない。誰の言葉も、もう必要ない。必要なのは、余計な痕跡を残さないこと。誰かの怒りを引き継がせないこと。
歩道橋の上に立つ。街灯が等間隔に並び、影が規則正しく落ちる。下を走る車の流れは、乱れない。クラクションも鳴らない。
恒一は、手すりに触れなかった。
この街に、迷惑をかけないために。
遠くで、終電の音がした。今日が、誰かにとっての区切りであることを、街は知らない。知る必要もない。
それでいい。
愛国心は、最後まで揺らがなかった。
この国の明日を、人質に取らないという決意として。
恒一は、目を閉じた。
静寂は、恐怖ではなかった。
それは、長い問いの終わりに置かれた、白紙だった。
次の一行は、
もう、書かれない。




