第三十二章 準備という沈黙
恒一の一日は、驚くほど静かだった。
朝のコンビニで新聞を一部買い、見出しだけを流し読みする。自分の名前はない。代わりに、別の炎上、別の論争。世界は順調に回っている。
彼はそれでいいと思った。
必要なのは、目立たないこと。派手な正義ではなく、余計な傷を残さない手順。
昼前、古いアパートの一室に戻る。壁に貼ったポスターも、机の上の資料も、すでに片づけてある。残っているのは、ノート一冊と、封筒が三通。
父宛、母宛、妹宛。
書き直しはしない。言葉は短い。
父には、感謝と距離。 母には、理解と別れ。 妹には、謝罪だけ。
彼は誰も責めない。責めることが、また誰かの朝を壊すと知っている。
午後、蒼浜神社に立ち寄る。観光客はいない。掃き清められた砂利の音だけが響く。
恒一は、深く頭を下げた。
願い事はしない。
代わりに、誓いを置く。
——この国を、これ以上壊さない。
それは、何もしないという意味ではない。やるべきことを、選び間違えないという意味だ。
境内を出ると、交差点で街宣車の残した紙片が風に舞っていた。拾い上げて、ゴミ箱に捨てる。旗も、スローガンも、今日は必要ない。
夕方、海沿いの倉庫街を歩く。人目の少ない道。だが、誰にも見られないことを、彼は目的にしない。
彼が整えているのは、
事故を起こさないための準備だ。
無関係な人間が巻き込まれない距離。時間。場所。
夜、最後に携帯の電源を落とす。
沈黙は、逃避ではない。
選択だ。
恒一は、椅子に腰掛け、目を閉じた。
この国の朝が、明日も続くことを思い描きながら。
その静けさの中で、
彼は、覚悟だけを研いでいた。




