第三十一章 残火
恒一は、夜明け前の蒼浜港に立っていた。
潮の匂いは、子どものころから変わらない。父に連れられて来た防波堤。遠くで鳴る汽笛。母が海外任務に出る前、黙って見送った岸壁。妹がまだ名前も知られていなかった頃、帰りに買った安い焼きそば。
この国は、彼の中で断片の集合体だった。
思想でも、スローガンでもない。生活の擦り傷だ。
恒一はポケットから、小さな日の丸を取り出した。街宣で振るためのものではない。折り目が甘く、糸がほつれている。昔、母が非常用にと渡したものだ。海外派遣の際、制服の内側に縫い込んでいたという。
——国を信じろ、ではない。
——国に生きろ、だ。
母の声が、はっきりと残っている。
彼は旗を広げない。ただ、掌に収めた。布の感触を確かめるように。
愛国心は、揺らいでいない。
それだけは、誰にも奪われなかった。
ただ、彼は理解している。
この国は、彼の激情を必要としていない。
必要としているのは、管理可能な沈黙だ。
港の向こうで、作業員たちが交代の挨拶をしている。誰も彼を見ない。見ないことで、街は平常を保つ。
恒一は、深く息を吸った。
「日本は、まだ終わっていない」
声に出しても、反響はない。だが、否定も返ってこない。
彼は、これまで「守る」という言葉を、壊すことと取り違えてきた。父の世界で学んだ取引、母の世界で見た統制、団体で刷り込まれた敵味方。すべてが、単純な二項に収束していた。
しかし今、彼の中に残っているのは、もっと不格好なものだ。
日常を壊さないこと。
名もない人間の朝を、無事に迎えさせること。
それを守るために、自分は何ができるのか。
——あるいは、何をしないべきなのか。
恒一は、拳を開いた。
これまで何度も、力を込めてきた手だ。殴るために、掲げるために。だが今は、何も掴まない。
スマートフォンが震えた。通知は見ない。見る必要がない。語られない場所で、語ることはない。
代わりに、彼は港を後にした。
街へ戻る。いつもの道。いつもの横断歩道。信号は守る。急がない。
日本人としての大和魂は、
旗を振ることでも、叫ぶことでもない。
最後まで、矜持を手放さないこと。
自分の行為が、誰かの朝を壊すかどうかを、選び続けること。
恒一の胸に残るのは、燃え盛る炎ではない。
消えきらない、残火だ。
それは、派手に世界を照らさない。
だが、彼自身を焼き尽くすほどの熱を、まだ持っていた。
——終わり方は、選べる。
彼はそう思いながら、街の中へ消えていった。




