第三十章 空白に立つ
恒一は、喫茶店のテレビを消してもらった。
店主は何も聞かなかった。聞かないことに慣れた街だ。蒼浜は、いつも何かを見ないふりでやり過ごす。
窓際の席。冷めたコーヒー。ガラスに映る自分の顔は、ニュースで見たそれよりも老けていた。
――語られていない。
それが、彼の最初の気づきだった。
テレビも、ネットも、彼の言葉を使っていない。使われているのは、動作、表情、停止した一瞬。拳を振り上げた腕。歪んだ口元。切り取られた怒り。
意味は、どこにもなかった。
あるのは配置だけだ。
善悪の図に置かれるための、黒い駒。
彼は、ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。かつて仲間内で配った声明文の草稿。書き直しの跡だらけで、最後まで完成しなかった。
《日本国のために――》
そこで筆は止まっている。
続きを書く気力が、もうない。
父の言葉が、遅れて蘇る。
「旗は、使い切られる」
母の沈黙も。
制服の襟を正したまま、何も言わずに背を向けた夜。
妹の既読が、つかなくなった画面。
彼は理解した。
語られない、という完成があることを。
語られない者は、反論も弁明もできない。敵にも味方にもなれない。ただ、事故として処理される。
喫茶店を出ると、街頭ビジョンが瞬いた。別の事件。別の顔。新しい炎上。
世界は、もう次に行っている。
歩道橋の上で、恒一は立ち止まった。下を走る車列。規則正しい流れ。
自分が、どこにも繋がっていない感覚。
右翼にも、左翼にも、家族にも、国家にも。
彼は、初めて拳を握らなかった。
怒りが、抜け落ちていた。
代わりに残ったのは、奇妙な静けさだ。
――終わり方だけが、残っている。
誰にも語られないなら、
自分で締めるしかない。
恒一は、歩き出した。
街灯の影を踏みながら。
その背中を、
もう、誰も追っていなかった。




