第三章 仲間という名前の装置
倉橋恒一が正式に団体へ名前を連ねたのは、二十三歳の冬だった。
入会に儀式はなかった。
誓約書も、署名もない。
あるのは、黙認だけだった。
「次から、裏方じゃなく前に立て」
リーダー格の男が、そう言った。
年齢は四十前後。髪は短く、体型は締まっている。元自衛官だという噂があったが、確証はなかった。名前も、本名かどうか分からない。
皆、彼を「先生」と呼んでいた。
先生は、思想を語らなかった。
代わりに、手順を教えた。
「怒鳴るな。叫べ」
「殴るな。囲め」
「一人を標的にするな。空気を作れ」
それは、理論というより実務だった。
街宣の場所、時間、警察の動線。
通報が入るタイミング。
カメラを回している人間への対処。
「これは戦争じゃない。業務だ」
先生は、淡々と言った。
恒一は、その言葉に違和感を覚えなかった。
業務。
父の世界でも、母の世界でも、よく聞いた言葉だった。
街宣の後、彼らは必ず同じ居酒屋に集まった。
奥の座敷。
店主は何も聞かない。警察も来ない。
酒が回ると、皆よく喋った。
「マスコミは敵だ」
「大学は赤だ」
「今の若い奴らは骨がない」
恒一も、同じ言葉を繰り返した。
それが正しいからではない。
通じるからだ。
通じる言葉は、居場所を作る。
ある夜、初めて「行動」に呼ばれた。
街宣ではない。
デモ妨害だった。
場所は、駅前広場。
反政府を掲げる市民団体の集会。参加者は二十人程度。老人が多かった。
「暴れるなよ」
先生は、そう言って笑った。
だが、誰も本気には受け取らなかった。
恒一は、拡声器を持たされた。
手が震えた。
怖さではない。高揚だった。
彼は叫んだ。
「売国奴!」
「反日分子!」
「日本から出ていけ!」
言葉は、刃物よりも軽かった。
だが、確実に刺さる。
怒鳴られた老人が、言い返そうとして詰まる。
周囲がざわつく。
誰かがスマホを構える。
その瞬間、後ろから押された。
誰かが転び、誰かが怒鳴り、警察が割って入る。
全てが、先生の言った通りの流れだった。
「業務」は、成功だった。
交番での事情聴取も、短時間で終わった。
皆、慣れていた。
「いい動きだった」
店に戻った後、先生が言った。
それだけで、恒一の中の何かが満たされた。
だが、その夜、父から電話が来た。
「最近、派手にやってるな」
低い声だった。
叱責ではない。確認だ。
「日本のためです」
恒一は、即答した。
父は、少し黙った後で言った。
「名前、出すなよ」
それだけだった。
恒一は、その意味を深く考えなかった。
父が止めなかったことが、許可だと思えた。
数日後、母とも食事をした。
「最近、騒がしいわね」
テレビのニュースを見ながら、母が言った。
恒一は、何も言わなかった。
「感情で動くと、組織は壊れる」
母は、画面から目を離さずに言った。
忠告なのか、確認なのか。
分からなかった。
だが恒一は、理解したつもりでいた。
自分は、個人ではない。
仲間がいる。
組織がある。
国家がある。
それらが、自分を正当化してくれる。
そう信じていた。
まだ彼は知らない。
「仲間」という言葉が、
思想ではなく、
装置として機能し始めていることを。
そしてその装置が、
彼自身をどこへ運ぶのかを。




