第二十六章 反対側の現実
左翼は、恒一にとって「敵」ではなかった。
風景だった。
街宣の向こう側に立ち、横断幕を掲げ、拡声器で同じ言葉を繰り返す存在。名前も顔も、区別する必要のない一団。そうやって、恒一は彼らを処理してきた。
だが、団体を切られ、国家からも家族からも切り離された今、恒一の視界に、初めて“個人”としての左翼が入ってきた。
蒼浜駅前の小さな集会。テーマは、基地問題と生活費高騰。参加者は三十人程度。年齢も、服装もばらばらだ。
最前列でマイクを握っている女がいた。三十代前半。声は掠れているが、言葉は整理されている。
「安全保障って言葉で、誰が得をしてるのか、考えてください」
恒一は、柱の影からその様子を見ていた。私服。帽子を深く被り、誰にも気づかれない位置。
女の話は、過激ではない。革命も、打倒も言わない。数字と生活の話だけを積み上げていく。
「この街で、基地関連の仕事に就いている人は全体の何パーセントか。恩恵を受けているのは、誰か」
聴衆の中に、うなずく顔がある。
恒一は、違和感を覚えた。
――敵なのに、現実的だ。
集会の端で、別の男がチラシを配っている。二十代後半。爪が短く、手にインクの染み。学生運動上がりか、労組系か。どちらにせよ、街宣車に石を投げるタイプではない。
恒一の背後で、誰かが小声で言った。
「……あの人、例の除名された右翼じゃない?」
空気が、一瞬だけ張り詰める。
だが、誰も近づいてこない。
左翼は、恒一を殴らなかった。罵らなかった。警察を呼ぶこともしない。
ただ、
距離を取った。
それが、恒一には一番堪えた。
集会が終わり、人が散る。
マイクを持っていた女が、片付けをしているところに、恒一は近づいた。
「聞いてた」
女は、驚かなかった。
「でしょうね」
声は、さっきより低い。
「あなた、危ない立場よ」
「説教か」
「事実」
女は、チラシを束ねながら言う。
「あなたみたいな人が、最後に一人で背負わされるの、何度も見てきた」
恒一は、笑った。
「俺たちは、敵だろ」
「立場はね」
女は、はっきり言った。
「でも、使われて捨てられる構造は、同じ」
その言葉は、恒一の胸に、静かに沈んだ。
女は、名乗らなかった。
「次は、もう少し人が多い場所で話す。来るなら、勝手に来なさい」
それだけ言って、去っていく。
恒一は、その背中を見送った。
右翼も、左翼も、
叫んでいる間は、まだ安全だ。
問題は、
叫ぶことを許されなくなった時だ。
恒一は、初めて、反対側の現実を直視した。




