第二十三章 制服の内側
母は、最初から“こちら側”に立っていたのだと、恒一は後になって理解する。
それは裏切りではない。信念ですらない。職業倫理だ。
連絡は、個人用の番号ではなかった。官用の回線。時間指定。場所指定。内容なし。
指定されたのは、蒼浜市郊外にある古い演習場跡だった。すでに民間には払い下げられ、今は名ばかりの管理地。だが、舗装だけは妙に新しい。
母は、制服では来なかった。だが、立ち姿は変わらない。背筋、歩幅、視線の運び。私服を着た自衛官ほど、軍人であることを隠せない存在はいない。
「座りなさい」
命令形だった。
恒一は、反射的に従いそうになる自分に苛立ち、あえて立ったままでいた。
「用件は」
母は、無駄な前置きをしない。
「あなたの名前が、複数の報告書に上がっている」
紙の束が、テーブルに置かれる。黒塗りだらけの資料。だが、日付と地名、行動概要だけで、何のことかは分かった。
「警察、検察、防衛省。縦割りの隙間で泳いでいた案件が、一本に束ねられ始めている」
恒一は、資料に目を落とさなかった。
「それで?」
「私が、その一部を提出した」
空気が、冷えた。
「……母さんが?」
「正確には、“私の部署が”」
言い換えにもならない修正だった。
「なぜだ」
「国家安全保障上の判断よ」
即答。
「あなたの行動は、外交上のリスクになりつつある。国内問題では済まなくなる」
恒一は、笑った。
「それが、国を守るってことか」
「そう」
母は、一切の躊躇なく頷いた。
「国は、感情で動かない。組織は、予測不能な要素を排除する」
恒一の中で、何かがはっきりと音を立てて折れた。
「俺は、国のために動いてきた」
「あなたは、“国の名前を使って”動いてきただけ」
母の言葉は、刃物のように正確だった。
「その違いが分からない人間は、危険なの」
沈黙。
風が、乾いた草を揺らす音だけがする。
「……家族はどうなる」
恒一の問いは、最後の抵抗だった。
「家族という単位は、国家の前では無効よ」
母は、そう言ってから、一瞬だけ視線を逸らした。
それが、唯一の“母親”だった。
「妹は?」
「保護対象にはなる。だが、あなたと切り離される」
それは、保護ではない。隔離だ。
母は立ち上がった。
「これ以上、接触しないで。あなたは、もう“民間人”でも、“活動家”でもない」
「じゃあ、何だ」
母は、最後にこう言った。
「処理対象よ」
その言葉に、怒りは湧かなかった。
ただ、奇妙な納得があった。
父は生き残るために裏切った。
母は国家のために切った。
そして自分は、
――何のために、ここまで来たのか。
演習場跡を出ると、空は異様に高かった。
制服の内側にあったのは、
愛国心ではなく、管理だった。
恒一は、その事実を、ようやく理解した。




