第二章 継承されたもの
倉橋恒一が初めて「組」という言葉を意識したのは、小学校に上がる前だった。
父の車の後部座席に乗せられ、夜の国道を走った。窓の外は真っ暗で、街灯が一定の間隔で流れていく。助手席には、見知らぬ男が座っていた。短く刈り込まれた髪、太い首、無言。シートに置かれた手の甲に、古い刺青の端が覗いていた。
「こいつが、俺の倅だ」
父は、そう言って恒一を指した。
男は一瞬だけ、恒一を見た。
評価するような目だった。笑わない。だが、拒絶もしない。
「そうですか」
それだけ言って、男は前を向いた。
恒一は、その視線の意味を理解できなかった。ただ、胸の奥が少しだけ熱くなった。
認められた、という感覚に近いものだった。
父は、家では多くを語らなかった。
仕事の話はしない。
ただし、ルールだけは教えた。
「裏切るな」
「逃げるな」
「筋を通せ」
それが何を意味するのか、具体的な説明はなかった。
だが、破った人間がどうなるかは、見せてくれた。
母は、父の仕事について何も言わなかった。
知らないふりをしていたのではない。
知っていて、触れなかった。
「あなたは、あなたの役割を果たしなさい」
それが母の一貫した態度だった。
彼女の世界では、個人の感情よりも、組織の安定が優先される。
命令は疑問ではなく、前提だった。
恒一は、その二つの世界を自然に繋げた。
暴力団と自衛隊。
違う組織。違う立場。
だが、共通点は多かった。
上下関係。
規律。
忠誠。
そして、国家という言葉が、その両方を包み込んでいた。
中学に入る頃、恒一は歴史に強い興味を持つようになった。
教科書に書かれた太平洋戦争の記述に、強い違和感を覚えた。
「侵略」「加害」「反省」。
どれも、家で聞いてきた言葉とは違った。
父は言った。
「負けたから、悪者にされたんだ」
母は言った。
「勝てば、正義だった」
その二つの言葉は、恒一の中で補完し合った。
強くなければならない。
勝たなければ、語る資格すらない。
高校に入る頃、彼はネットで「真実」を探し始めた。
論壇動画、匿名掲示板、街宣の切り抜き。
そこには、彼の疑問に即答する言葉があった。
戦争は自衛だった。
戦後体制は押し付けだ。
共産主義は日本を内部から壊す。
天皇は国家の核だ。
どれも、断定形だった。
断定は、心地よかった。
迷わなくていい。
考えなくていい。
大学には進まなかった。
母は何も言わなかった。
父は、少しだけ笑った。
「余計なこと覚えずに済むな」
二十歳を過ぎた頃、恒一は街宣団体の集会に顔を出すようになった。
最初は、後ろの方で聞いているだけだった。
だが、声を出すと、拍手が返ってきた。
怒りを言葉にすると、仲間が増えた。
「若いのに、筋がいい」
そう言われた時、胸の奥が震えた。
父に向けられた、あの評価の視線と同じものだった。
恒一は、確信した。
自分は、間違っていない。
選ばれている。
継ぐべきものを、継いでいる。
だが彼は、まだ知らない。
その「継承」が、
誰の意思によって設計され、
どこへ収束していくのかを。
知るのは、もう少し先の話だった。




