第十三章 事故の設計図
「事故」は、偶然を装うほど、手間がかかる。
恒一は、そう教えられたわけではない。
だが、提示された資料を見ただけで理解した。
男――港湾労組の幹部は、毎朝同じ時間に自転車で河岸沿いを走る。
防犯カメラの位置。
工事用フェンスの死角。
通勤車両の流れ。
どれも、公開情報だ。
誰でも集められる。
だからこそ、罪の輪郭が曖昧になる。
恒一は、直接の役を与えられていなかった。
連絡役。
確認役。
「整合」を取る役。
手を下さない。
だが、手が汚れないわけではない。
夜、古いビルの一室で、段取りの最終確認が行われた。
顔を合わせたのは三人だけ。
全員、名を名乗らない。
「当日は雨だ」
一人が言った。
「足元が悪い。
自転車は、転びやすい」
誰も反論しない。
誰も、方法を具体化しない。
具体化しないことが、合意だった。
恒一は、窓の外を見ていた。
蒼浜の夜景。
整備中の岸壁。
遠くのクレーン。
街は、計画通りに進んでいる。
会合が終わる直前、スーツの男が言った。
「君は、現場に行かなくていい」
配慮ではない。
距離の確保だ。
「だが、終わったかどうかは、
君が最初に知る」
恒一は、頷いた。
その帰り道、母の車を見かけた。
基地関連施設の前。
警備のチェックを受けている。
母は、国家の内側にいる。
自分は、外側で殴る役だと思っていた。
だが、境界線は、
思っていたより薄かった。
深夜、雨が降り始めた。
窓に打ちつける音が、一定のリズムを刻む。
眠れずにいると、妹の部屋の灯りが消えた。
今日も、何事もなく終わったのだろう。
午前六時過ぎ、スマートフォンが震えた。
短い通知。
ニュースアプリ。
《港湾地区で事故 自転車の男性、意識不明》
本文を開く指が、わずかに遅れた。
年齢。
場所。
時間。
すべて、合っている。
事故だ。
記事は、そう断定している。
恒一は、スマートフォンを伏せた。
胸の奥が、空洞になる。
誰も、自分に指示を出していない。
誰も、礼も、報告もしてこない。
それが、成功の証だった。
数時間後、先生から一行だけ届いた。
《静かに》
恒一は、返信しなかった。
外では、雨が上がり始めていた。
通勤の車列が、動き出す。
今日も、街は回る。
計画通りに。
事故の設計図は、
誰の机にも残っていない。
だが、
消えない線が、
恒一の中に一本、引かれた。
越えた線は、戻らない。
踏み絵は、もう足元にない。
踏み抜いた後の感触だけが、
いつまでも、残っていた。




