第十二章 踏み絵
踏み絵は、突然差し出される。
準備の時間はない。
考える猶予も与えられない。
踏むか、拒むか。
それだけだ。
蒼浜市の中心部から少し離れた、古いビルの一室。
かつては学習塾だったという場所に、臨時の会合が設けられた。
出席者は限られていた。
先生。
スーツの男。
それから、恒一だけ。
「君に、頼みがある」
先生は、いつになく回りくどかった。
机の上に置かれた資料には、
一人の男の名前と顔写真があった。
四十代前半。
港湾労組の幹部。
再開発反対派の中核人物。
「過激な思想はない」
スーツの男が言う。
「だが、影響力がある」
恒一は、写真から目を離さなかった。
どこにでもいそうな、疲れた顔だ。
「何を、すればいい」
声は、驚くほど落ち着いていた。
先生は、一瞬だけ目を伏せた。
「事故が起きればいい」
その言葉で、全てが理解できた。
殴るのではない。
脅すのでもない。
消す。
「殺すんですか」
恒一は、初めてその言葉を口にした。
「結果として、そうなるかもしれない」
スーツの男の答えは、曖昧だった。
「君が直接やる必要はない」
「でも、関わる」
即答だった。
部屋の空気が、重く沈んだ。
「これは、線を越える」
恒一は言った。
「線は、もう動いている」
スーツの男が、静かに返す。
先生は、何も言わなかった。
沈黙が、肯定だった。
「断ったら」
恒一が聞く。
スーツの男は、少しだけ間を置いた。
「断る自由はある」
その後に続く言葉が、なかった。
自由の代償が、何かを語らなくても分かる。
帰り道、恒一は蒼浜港に立ち寄った。
夜の海は黒く、音を吸い込んでいる。
父の言葉が、頭をよぎる。
――使われる側に回れる人間だ。
母の声も、重なった。
――立場を考えなさい。
妹の笑顔が、浮かぶ。
守るとは、何だ。
壊すことか。
黙ることか。
スマートフォンが震えた。
先生からの短いメッセージ。
《返事は、急がない。
だが、時間は多くない》
恒一は、画面を閉じた。
その夜、眠れなかった。
夢も見なかった。
ただ、朝が来るのを待った。
踏み絵は、まだ足元にない。
だが、
置かれる場所は、もう決まっている。
次に進めば、
後戻りはできない。
それでも歩くのか。
それとも、
立ち止まることで全てを失うのか。
選択は、
もう、恒一の中にある。
それが、
どれほど汚れているかを、
彼自身が一番よく分かっていた。




