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『国の名の下に』  作者: キロヒカ.オツマ―


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第一章 正しい怒り

父親が人を殴る音を、倉橋恒一は幼い頃から聞いて育った。


 それは怒鳴り声でも悲鳴でもなかった。

 もっと鈍く、乾いた音だった。肉と骨が、固いものに打ち付けられる音。床に落ちる歯の転がる音。誰かが息を吸おうとして失敗する、喉の奥のかすれた音。


 倉橋の父・恒一郎は、指定暴力団の幹部だった。

 表向きは建設会社の役員。自治体の下請け工事をいくつも握り、地元では「顔の利く人間」として通っていた。


「筋を通さねえからだ」


 父はそう言って、人を殴った。

 理由はそれだけだった。


 筋とは何か。

 恒一は、子どもの頃からそれを考えたことがない。考える前に、答えが与えられていたからだ。


 殴られる側が悪い。

 逆らう者が悪い。

 秩序を乱す者が悪い。


 母は、父とは別の意味で厳しかった。


 母・恒一恵は、元自衛隊幹部だった。

 制服の着こなし、時間厳守、言葉遣い。家庭の中にまで、規律は持ち込まれていた。


 朝六時。起床。

 七時。国旗掲揚。

 祝日には、テレビの前で直立不動。君が代が終わるまで、背筋を伸ばし、視線を逸らさない。


「国は、守るものよ」


 それが母の口癖だった。


 守るとは、命令に従うこと。

 疑問を持たないこと。

 必要なら、命を差し出すこと。


 父の暴力と、母の規律。

 そのどちらも、恒一の中では矛盾なく並び立っていた。


 だから彼は、怒りを疑わなかった。


 怒りは正しい。

 力は必要だ。

 正しい日本のためなら、何をしても許される。


 二十五歳になった今も、その感覚は変わっていない。


 恒一は、地方都市の外れにある雑居ビルの一室にいた。

 壁には、天皇陛下の御真影。日の丸。靖国神社の写真。

 机の上には、街宣用の原稿と、次の行動計画が並んでいる。


「今の日本は、腐っている」


 集会で、彼はそう言う。

 共産主義者。反日メディア。売国政治家。

 敵の名前はいくらでも出てくる。


 外国人労働者が増えた。

 国防は弱体化した。

 憲法は縛りだ。

 戦後体制は屈辱だ。


 彼は、それらを自分の言葉だと思っていた。


 だが実際には、誰かが用意した言葉を、順番に拾っているだけだった。

 それでも、疑わなかった。

 疑うこと自体が、裏切りだと思っていたからだ。


 父は言った。

「話し合いで国は守れねえ」


 母は言った。

「感情で動くな。だが、命令なら迷うな」


 その両方を、恒一は忠実に受け継いだ。


 街宣車のエンジンがかかる。

 スピーカーから、君が代の前奏が流れる。


 通行人の視線が集まる。

 嫌悪、無関心、恐怖。

 それらを感じ取るたび、恒一の胸の奥で、何かが熱を持つ。


 ――俺は間違っていない。


 誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。

 だが、答えは返ってこない。


 代わりに彼は、声を張り上げる。


「日本を、取り戻す」


 その言葉が、誰のためのものなのか。

 自分のためなのか。

 国のためなのか。


 この時点で、恒一はまだ知らない。


 自分の怒りが、

 どこへ連れて行かれるのかを。

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