私の愛する婚約者は流行りの婚約破棄をしたいみたい
数日前、私が王宮で婚約者であるヨハン様とお茶会をしていた時、席を外したヨハン様のコートから落ちた手帳の中身を、私は見てしまった。
本当は拾った手帳を届けたかったが、見る見るうちに遠くに歩いて行ってしまったので、テーブルに置こうとした。
けれども、出来心で手帳を開いてしまった。
ヨハン様の字は、綺麗だった。ページをめくると、私は目を疑った。
「……えっ?」
そこには、「流行りの婚約破棄をしてみたい。」と書かれていた。
最近、破棄するための婚約をする人がいるくらい婚約破棄が流行っていることを友人から聞いたが、ヨハン様が婚約破棄をしてみたいと思っているとは思っていなかった。
驚きと戸惑いと不安と悲しみで、手が震えた。
(私は、何かしてしまったのでしょうか……何か悪いところがあったのでしょうか……婚約破棄されてしまうようなことをしてしまったのでしょうか……)
頭の中が混乱した。
しばらくすると、私は今まさに手帳の中身を勝手に見るという悪いことをしていることに気づいた。
(まずい。ヨハン様の手帳を勝手に見たことがバレてしまったら……本当に婚約破棄されてしまうかもしれない)
私は慌てて手帳を閉じようとしたが、「流行りの婚約破棄をしてみたい。」の次の行に「でも、そんなことをしたらエリアーナが可哀想だ。」と書かれているのを見て、少し安心した。
私は、手帳をテーブルに置き、見なかったことにした。
心臓が早鐘を打つ音が、耳の奥でずっと反響していた。
ヨハン様が戻ってきて、テーブルの上の手帳を拾い上げ、懐にしまった時、私は酸欠になりそうなほど息を殺していた。
「待たせたね、エリアーナ。風が強くなってきた。中に入ろうか」
彼の声はいつも通り優しく、日向のような温かさを含んでいた。
栗色の髪が微風に揺れ、私に向けられる碧眼には一片の曇りもない。その完璧な穏やかさが、今の私には逆に恐ろしかった。
(この人は、こんなに優しい顔をして、心の奥底では「流行りの遊び」としての断罪劇を夢想しているのでしょうか)
最近の社交界は異常だ。
夜会が開かれるたびに、どこかの令息が高らかに叫ぶ。
「真実の愛」や「悪役令嬢」などの言葉が飛び交い、煌びやかなドレスを着たご令嬢が涙ながらに断罪され、あるいは逆に相手を論破して喝采を浴びる。
それはもはや一種の演劇であり、退屈な貴族たちの娯楽になり果てていた。
(まさか、あの誠実で真面目なヨハン様まで、そんな狂った流行に毒されているなんて)
◇◇◇◇
その日以来、私は疑心暗鬼の塊になった。
私たち二人の関係は、幼い頃からの政略結婚ではあったけれど、そこには確かに穏やかな信頼と愛情が育まれていたはずだった。少なくとも、私はそう信じていた。 けれど、「流行りの婚約破棄をしてみたい。」という手帳の文字が脳裏に焼き付いて離れない。
◇◇◇◇
数日後の夜会。
「エリアーナ、今日はずいぶん静かだね。顔色も良くない。少し休もうか」
その気遣いさえ、予兆に思えてしまう。
(「可哀想だ」と手帳に書いていたあの慈悲が、今の彼の優しさの正体なのでしょうか)
私たちはバルコニーへと出た。夜風が熱った頬を撫でるが、冷や汗は止まらない。
「……ヨハン様」
「ん? どうしたの」
「もし、私が……とんでもない悪女だったら、どうされますか?」
喉がひきつり、馬鹿げた質問が口をついて出た。
ヨハン様はきょとんとして、それからふっと柔らかく笑った。
「君が悪女? 想像もつかないな。路地の捨て猫を一匹残らず拾おうとして、屋敷の使用人を困らせた君が?」
「た、例えばの話です! 私がヨハン様を裏切って、他の殿方と密通していたり、誰かを陥れようとしていたり……そうしたら、やはり婚約破棄、なさいますか?」
私の声は震えていたと思う。
ヨハン様はバルコニーの手すりに肘をつき、少し遠い目をした。
夜空を見上げる彼の横顔は、彫像のように美しいけれど、どこか寂しげに見えた。
「……そうだね。もし君が本当にそんなことをしたら、僕は君を断罪しなければならない立場だ」
「そう、ですよね」
「皆の前で君の罪を暴き、『君との婚約を破棄する!』と高らかに宣言する。それが、王族としてのけじめであり……今の流行りなのだろう?」
心臓が止まるかと思った。
彼は、知っているのだ。「流行り」という言葉を口にした。あの手帳の言葉は、やはり本心だったのだ。
私が絶句していると、ヨハン様は視線を私に戻し、困ったように眉を下げた。
「でもね、エリアーナ。僕は流行りには疎いんだ。それに、そんな派手な舞台は僕の性には合わないよ」
彼は、私と軽く口付けをした。その仕草はあまりに自然で、あまりに愛おしくて、私は泣きたくなった。
(どっち何ですか? 破棄したいのですか? したくないのですか?)
私は混乱の極みにあった。
◇◇◇◇
事態が動いたのは、それから一ヶ月後のことだった。
王宮の庭園で開かれた小規模な茶会。そこには、最近ヨハン様と親しくしていると噂の男爵令嬢ミリア様の姿があった。
彼女は愛らしいピンクブロンドの髪をなびかせ、小鳥のような声でヨハン様に話しかけている。
「ヨハン様ぁ、このお菓子、とっても美味しいですぅ! あーんしてください!」
「はは、ミリア嬢は元気だね。でも、それは自分で食べられるだろう?」
ヨハン様は苦笑しながらも、彼女を拒絶しない。
私は胃がキリキリと痛むのを感じながら、紅茶のカップを握りしめていた。
(これが、所謂「ヒロイン」という存在なのでしょうか)
私はここで嫉妬に狂い、彼女に紅茶をぶちまければ「悪役令嬢」の完成だ。
そうすれば、「婚約破棄をしてみたい」というヨハン様の願いを叶えてあげられる。
(……馬鹿なことを考えないで、私)
私は首を振った。そんなことで彼を喜ばせても意味がない。
だが、ミリア様は止まらなかった。私が席を立ったタイミングを見計らい、わざとらしく私の足元に躓いたのだ。
「きゃっ!」
「あっ……!」
私が手を差し伸べるより早く、彼女は芝生の上に倒れ込み、大袈裟に声を上げた。
「痛ぁい……! エリアーナ様、ひどいですぅ! 足をかけるなんて!」
周囲の視線が一斉に私に集まる。令嬢たちの囁き声が聞こえる。
「またよ」
「流行りのいじめね」
「エリアーナ様に限ってまさか」
私は呆然と立ち尽くした。何もしていない。私は、ただ立っていただけなのに。
そこへ、ヨハン様が駆け寄ってきた。
「何事だ!」
「ヨハン様ぁ! エリアーナ様が、私がヨハン様と仲良くするのが気に入らないって……突き飛ばしたんですぅ!」
ミリア様は涙目でヨハン様にすがりつく。完璧なシチュエーションだ。衆人環視の中、虐げられたヒロインと嫉妬深い婚約者。
ヨハン様が私を見る。その目は鋭く、今まで見たことがないほど冷徹に見えた。
ついに、来たのだ。
彼が望んでいた瞬間が。手帳に書かれた願望が成就する時が。
私は覚悟を決めて、目を閉じた。罵倒されるならされればいい。彼がそれを望むなら、私は悪役として散ろう。それが、私の最後の愛だ。
「……エリアーナ」
低く、重い声が私の名を呼んだ。
私は震える唇を噛み締め、次の言葉を待った。「婚約破棄する」というその言葉を。
「……怪我はないか?」
(え?)
目を開けると、ヨハン様はミリア様ではなく、私の腕を掴んで心配そうに覗き込んでいた。
「ヨ、ヨハン様? 突き飛ばされたのは、ミリア様で……」
「君がそんなことをするはずがない。君は虫一匹殺せない優しい人だ。それより、彼女が倒れた拍子に君も巻き込まれそうになっていた。足首は? 捻っていないか?」
予想外の反応に、周囲も、そしてミリア様も口を開けて固まっている。
「ちょ、ちょっとヨハン様!? 私は怪我してるんですよぉ!?」
ミリア様が抗議の声を上げるが、ヨハン様は冷ややかな視線を彼女に向けた。
「ミリア嬢。僕の目は節穴ではない。君が自分で躓き、大袈裟に倒れたのをこの目で見ていた。……エリアーナを陥れようとするような真似は、感心しないな」
その声には、氷のような怒りが滲んでいた。
ミリア様は顔を真っ赤にして、逃げるようにその場を去っていった。周囲の空気は一変し、私を見る目は同情へと変わる。
私は助かった。けれど、心の中の霧は晴れなかった。
(なぜ? どうして? あの手帳には、「してみたい」と書いてあったのに。絶好のチャンスだったのに)
◇◇◇◇
その日の夕方、私はヨハン様の執務室に呼び出された。二人きりの部屋。夕日が窓から差し込み、長い影を落としている。 ヨハン様はソファに深く腰掛け、疲れ切ったように顔を覆っていた。
「……エリアーナ、すまなかった」
「いえ、ヨハン様が助けてくださったおかげです。……でも」
私は意を決して、彼に近づいた。
(もう、聞くしかありません)
このまま不安を抱えて生きていくのは耐えられない。
「ヨハン様。……本当は、したかったのではありませんか?」
「え?」
「婚約破棄です」
ヨハン様が顔を上げる。その顔には、驚きと動揺が露わになっていた。
「な、なぜそれを……」
「ごめんなさい。見てしまったのです。あの日、あなたの手帳を」
私の告白に、ヨハン様は息を呑んだ。そして、みるみるうちに耳まで赤く染め、両手で顔を覆って呻いた。
「あぁ……なんということだ……見られていたなんて……」
「ごめんなさい。勝手に見た私が悪いのです。でも、書いてありましたよね。『流行りの婚約破棄をしてみたい』と。……今日のミリア様のこと、本当は利用できたはずです。私を悪者にして、私を捨てることができたはずです! なのに、どうして……!」
涙が溢れて止まらない。不安で押しつぶされそうだった一ヶ月分の感情が、決壊したダムのように流れ出した。
ヨハン様はおろおろと立ち上がり、私を抱きしめようとしたが、ためらい、結局私の肩に手を置いた。
「ち、違うんだ、エリアーナ。違うんだよ」
「何が違うんですか! 書いてあったじゃないですか!」
「あれは……あれは、続きがあるんだ!」
私は涙に濡れた目で彼を見上げた。
「『でも、そんなことをしたらエリアーナが可哀想だ』って書いてありました。だから我慢しているんでしょう? 私への同情で!」
「違う! その先だ! 次のページは見たのか!?」
(次のページ? )
私は首を横に振った。「でも、そんなことをしたらエリアーナが可哀想だ。」という一文を見て、安心して手帳を閉じてしまったから。
ヨハン様は慌てて懐からあの手帳を取り出し、パラパラとめくって私に押し付けた。
「ここだ。ここを読んでくれ」
震える手で手帳を受け取る。
「流行りの婚約破棄をしてみたい。でも、そんなことをしたらエリアーナが可哀想だ。」と書いてある。
ページをめくった先に、さらに文章が続いていた。
『それに、僕には絶対に無理だ。もし「婚約破棄だ!」と叫んだとして、そのあと泣きそうなエリアーナを見たら、僕は3秒で土下座して「嘘です愛しています結婚してください」と縋り付いてしまう自信がある。あんな可憐で誠実な彼女を断罪するなんて、信じられない。流行りには乗ってみたいという好奇心はあるが、その代償がエリアーナを失うことなら、僕は一生時代遅れの男でいい。今日もエリアーナが可愛い。』と書いてあった。
「…………」
私は言葉を失った。涙が引っ込んだ代わりに、顔から火が出るような熱さが襲ってきた。
(何これ。何これ、ただの惚気日記じゃないですか)
「……読んだかい?」
ヨハン様が蚊の鳴くような声で尋ねてくる。
見ると、彼は窓際でカーテンにくるまりそうなほど縮こまっていた。
「……読みました」
「……忘れてくれ。一生の不覚だ」
「あの、『流行りの婚約破棄をしてみたい』というのは……」
「ただの……男のロマンというか、劇の主人公への憧れというか……ちょっとした魔が差しただけで……本気じゃなかったんだ。でも、書いてるうちに君の顔が浮かんできて、結局ただの君への愛を再確認する文章になってしまって……」
彼は顔を真っ赤にして言い訳を並べ立てる。
その姿があまりにも必死で、あまりにも人間臭くて、私は吹き出してしまった。
「ふふ……ふふふっ」
「わ、笑わないでくれ。恥ずかしいんだ」
「いいえ、嬉しいんです。……ヨハン様が、そんな風に私のことを考えてくださっていたなんて」
私は手帳を丁寧に閉じ、彼に返した。
「私も、ヨハン様と同じです」
「え?」
「流行りの断罪劇なんていりません。私も、一生時代遅れの、幸せな夫婦になりたいです」
ヨハン様は呆気にとられた顔をした後、安堵したように破顔した。
そして今度こそ、迷いなく私をその腕の中に抱きしめた。
「……愛しているよ、エリアーナ。婚約破棄なんて、死んでもしない」
「はい。私もです、ヨハン様」
彼の胸の鼓動が、私と同じリズムで高鳴っているのが聞こえる。
私たちは、流行り廃りの激しいこの世界で、一番退屈で、一番陳腐で、そして一番確かな「変わらない愛」を選んだ。
手帳の中身は、二度と見ない。
きっとこれからのページには、私たちが共に歩む穏やかで甘やかな日々だけが綴られていくのだから。
ただし、たまに彼がまた変な流行に毒されそうになったら、その時は私が全力で、阻止してあげようと思う。
窓の外では、一番星がひっそりと瞬いていた。まるで、私たちのささやかな幸せを祝福するように。
お読みいただきありがとうございました。作品の下の方にある☆☆☆☆☆を押していただけると、励みになります。




