第22話【ヘクターSIDE】 リクの情報を売り、金貨を得る。
ヘクターナイツのクランハウス。
学校内でも最大派閥だったため、学校の敷地内でもかなり大きな建物を使用し、これまで運用してきた。
しかし、リクが辞めたことで、もはや、維持できない状態になっている。
「残ったのは、俺を入れて六人。か……」
冒険者パーティーが4人構成で組まれることが多いことを考えれば、2パーティーを作ることができる程度の物。
いや、そのうち二人にサポートを任せる方がいい。
実質1パーティーだ。
「ヘクターナイツも終わりか。リクが辞めただけで、こんなことに……」
ヘクターのデスクに置かれた紙。
それは、『金貨287枚の納税通知書』だ。
リク式日本円換算で1722万円。
大所帯のヘクターナイツだったが、もはやその資金力もない。
「……父上からの返信も、ない」
ぽつりと、ヘクターは呟く。
アイゼン伯爵家という、強大な後ろ盾。それすらも、今の彼にはない。
自分は、ただの駒でしかなかったのだと。
そして、使い物にならなくなった駒は、捨てられる。ただ、それだけのことだった。
……そんな時、クラブハウスの扉が、控えめにノックされた。
「……どなたかな」
残ったメンバーの一人が扉を開けると、そこに立っていたのは、穏やかな笑みを浮かべた、見慣れた教師の姿だった。
「え、えっと……」
「ビラベル先生……」
ヘクターは名前が出てこなかったようだが、部下の生徒が彼の名前を口にした。
「やあ、ヘクター君。少し、よろしいかな」
ビラベルは、他の生徒に目配せして下がらせると、一人、ヘクターのデスクへと歩み寄る。
彼は、テーブルの上に置かれた納税通知書を一瞥し、深く、同情に満ちたため息をついた。
「話は聞いているよ。君ほどの才能が、このような些事……紙切れ一枚で苦しめられているとは、王国にとって大きな損失だ」
「……先生。慰めなら、結構です」
「慰めなどではないさ。これは、未来の王国を担う君への、私からの『投資』だよ」
そう言って、ビラベルは、持っていた革の鞄から、ずっしりと重い金貨袋を取り出し、ヘクターの前に置いた。
ジャラジャラ、と硬貨が立てる、重く、甘い音が響く。
「……これは」
「中身は、金貨300枚。納税には、十分すぎるはずだ」
ヘクターは、息をのんだ。
地獄の底で、一条の光どころか、太陽そのものが差し込んできたかのような衝撃。
しかし、彼はまだ、貴族としての理性を失ってはいなかった。
「……なぜだ、先生。これほどの金を、見返りもなしに、俺に?」
「見返りなど。言っただろう、これは投資だと……だが、もし君が、どうしてもこの借りを返したいと願うのなら、一つだけ、手伝ってほしいことがある」
ビラベルの瞳が、初めて、教師ではない、別の何かの光を宿した。
「君の元にいた、リク君のことだ。彼は今、素性の知れぬ『黄昏の盟約』などという団体に出入りしているらしい。一教師として、優秀な生徒が道を踏み外さないか、心配でね……君から見て、彼が今、どんな生活をしているのか、時々、教えてはくれないだろうか。ただの、心配からだよ」
その口調は、どこまでも生徒を思う教師のものだった。
しかし、その実態は、リクの情報を手に入れるための、巧妙なスパイの勧誘に他ならない。
「……先生。失礼ですが、なぜあなたがこれほどの大金を? あなたは、男爵家の…」
「ああ、これかね?」
ビラベルは、悪びれもなく笑う。
「この学園は、ご存知の通り、大貴族や大商会の子弟で溢れている。熱心な研究をしていれば、物好きなパトロンや、『研究助成金』の話は、いくらでも舞い込んでくるものだよ。この学園では、珍しい話ではないさ」
その言葉は、絶望の淵にいるヘクターにとって、抗いがたい説得力を持っていた。
目の前には、全てを解決してくれる「救済の金貨」。
その代償は、自分が捨てた、あの平民の動向を、少しだけ気に掛けること。
ヘクターは、ずっしりと重い金貨袋に、ゆっくりと手を伸ばす。
目の前にある大量の金貨という存在が、彼のプライドを狂わせたのか。
それとも、それがなければ、残ってくれた部下すらも守れないからか。
ヘクターは、金貨を受け取った。
「……感謝する、ビラベル先生」
「いいんだよ、ヘクター君。言っただろう、これは『投資』だと。それで、リク君のことだが……何か、気になるような点はあったかね? 例えば、彼が使っていた特殊な道具や、口癖、あるいは、誰と親しくしていたか、など」
ビラベルは、あくまで優しく、雑談のように問いかける。
彼が期待していたのは、リクの『異常性』を示す、具体的な情報の断片だった。
(黄昏の盟約はユグドラシルを加工する術を持っていなかったはず。だが、リクが入ってすぐにそれを成し遂げた。何らかの秘密があるはず)
内通者として。
学校という場で確かな権限を持つ身として。
ビラベルは、ヘクターに問う。
「リク、か……」
ヘクターは、少しだけ、忌々しそうに、しかしどこか得意げに語り始める。
彼にとっては、自分が見出した『便利な道具』の性能を、説明するような感覚だった。
「あいつは、ただの平民だ。文官コースで成績は良かったらしいが、剣の才能は皆無。とにかく物静かで、一日中、机に向かっているような、退屈な男だった」
「ほう……」
「唯一の取り柄は、計算が異常に速いことだな。あの木の板……『そろばん』とか言ったか。あれを使わせれば、まあ、並の会計士よりは仕事ができた」
ビラベルは、穏やかな笑みを浮かべたまま、内心で、こめかみがピクリと動くのを感じた。
(そろばん……? それだけだと? 馬鹿な。私が事前に確認した、ヘクターナイツが提出していた『貴族申告』の書類の総量と複雑さは、一人の人間が、そろばんだけで処理できる物理的な限界を、遥かに超えているはずだ)
ビラベルは『雲行きの怪しさ』を感じたが、目の前にいるヘクターもまた貴族なのだ。
何か、こう、何か知っていてほしいのだ。
「他に、何か特別なことは? 例えば、彼が自作した、作業を効率化するような道具は?」
「道具? いや、あいつが使っていたのは、ペンとインク、それとその『そろばん』くらいだ。ああ、たまに趣味で、木を削って何かを作っていたようだが、ただの気晴らしだろう。あいつには、そんな大した発想力はない」
ビラベルの完璧なポーカーフェイスの下で、彼の内心は、静かな絶望に包まれ始めていた。
(表面しか見えてなさすぎだろ、コイツ……!)
ビラベルは、この瞬間、全てを理解した。
ヘクター・フォン・アイゼンという男は、何年もの間、自分のすぐ隣で稼働していた『超高性能エンジン』の存在に、全く気づいていなかったのだ。
エンジンの排気音を『ただの雑音』だと認識し、その驚異的な出力を『全て自分の運転が上手いからだ』と、心の底から信じ込んでいた。
(リクは、間違いなく、作業効率を常軌を逸したレベルまで引き上げる、何らかの『仕組み』か『秘術』を隠し持っている。そして、この目の前の男は、その価値を微塵も理解できないまま手放した。私は、金貨300枚を払って、『何も見ていなかった男』から、『何の情報も得られなかった』というわけか)
彼の投資は、スパイの雇用としては、最悪の結果に終わった。
しかし、ビラベルは表情一つ変えない。
「そうか。よく分かったよ、ヘクター君。彼が、君の言うような『退屈な男』であることを祈ろう……引き続き、彼の動向には注意を払っていてくれたまえ。何か変わったことがあれば、すぐに知らせてほしい」
「ああ、任せておけ」
ビラベルは、満足げに頷くと、静かにクラブハウスを後にした。
残されたヘクターは、目の前の金貨袋を見て、安堵の息をつく。
これで、当面の危機は去った。
リクの情報を話すだけで、大金が手に入った。
もっとも……ここで語ったのは、ヘクターが知る、リクのすべてだ。
それほど、彼はリクを見ていなかった。
いや、リク自身、使っていた木製機械の存在がバレたら、あれこれ言われることは想定していたはずで、それを避けるために自宅で使っていたし、隠すための手順も組んでいたのは間違いない。
しかし、それを加味しても。
書類整理という作業が自分とは関係のないものだと思っていたからこそ、ヘクターは何も知らないのだ。
というか。
仮に、『お前の情報を内通者に話して済まない』とリクに謝るとして、何を漏らしたのかをリクに説明したら、逆に呆れられるレベルである。




