第5章 肖像画の秘密
晩餐の終え、ユリウスは滞在中の自室へ戻る途中、執事のクロードに呼び止められた。
「ユリウス様、よろしければ少々お時間をいただけますでしょうか」
クロードに促され、ユリウスが案内されたのは、客間とは異なる、屋敷の奥まった一室だった。窓の外はすっかり夜の闇に包まれ、庭園を照らす灯りが、深い影を落としていた。
そこには、侍女頭のリネットが一人で待っていた。
「突然お呼び立てして申し訳ございません、ユリウス様」
リネットが深々と頭を下げた。ユリウスは、この二人が自分に何を話そうとしているのか、訝しく思いながら部屋を見渡す。そして、ふと壁にかけられた大きな肖像画に目を留めた。
肖像画には、公爵と幼少の頃に会った記憶のある公爵夫人。そして、その間に立つ幼い少女が描かれていた。
「これは…一体どういうことですか?」
ユリウスは戸惑いを隠せない。肖像画の少女は、幼き日のブランと見紛うほどだった。
リネットはユリウスの視線に気づき、静かに説明を始めた。
「この肖像画は、グレイブス公爵家のご一家を描いたものです。夫人は公爵夫人のルシア様。そしてこの少女は、公爵家の一人娘エレノア様です」
リネットは続けて、自身がエレノアの乳母であったこと、そして初めてブランに会った時、その姿に言葉を失うほど驚いたことを語った。
「他人にしてはあまりにも似すぎている。ただの空似とは思えないのです」
リネットの言葉に、ユリウスも深く頷いた。動揺しながらも、確かにその通りだと感じていた。
「まさかブランは、公爵家に関わりがある生まれなのでしょうか?」
ユリウスが問いかけると、リネットは深く息を吐いた。
「もしかしたら、そうなのかもしれません。ブランさんから、ご自身の生い立ちについてはお伺いしました。ユリウス様が、ブランさんを最初に見つけられた時のことを詳しくお聞かせ願えませんか?」
リネットに促され、ユリウスは当時のことを話し始めた。
「16年前、父と一緒に行った辺境伯領の小さな町の馬小屋から赤子の泣き声が聞こえました。その馬小屋で布に包まれたブランを見つけたのです。その時、彼女のそばに身元を示すものは何もありませんでしたが、地面に『ブラン』という文字が書かれていました。私たちは、その文字を彼女の名前としました」
ユリウスの言葉に、クロードとリネットは真剣な表情で耳を傾けている。
「それからブランは、町の孤児院で育てられることになったのです。その時、彼女の身元が全く分からないままだったことが、今、公爵家との繋がりを考える上で、重要なことなのかもしれません」
ユリウスは、ブランの瞳の色が、肖像画の少女エレノアとは違う、公爵の瞳の色と全く同じであることに気づいた。そして、その事実が、ブランがグレイブス公爵家の一員である可能性を強く示唆しているように思えた。
「ところで、エレノア様は今、どうされているのですか?」
ユリウスが尋ねると、リネットは静かに語り始めた。
「エレノア様が伯爵家に嫁がれたのは20年前のことです。今も伯爵領で暮らしていらっしゃいます。当時エレノア様は16歳で、その時の姿は今のブランさんにまさに生き写しでした。瞳の色こそ違えど、お顔も髪の色も華奢な体つきも、本当にそっくりです」
リネットは悲しげな眼差しで、肖像画のエレノアを見つめた。
「旦那様は早くにエレノア様が嫁がれてしまい、大層寂しい思いをしておられました。ルシア様を亡くされてからは特に、本当にエレノア様を可愛がっておいででしたから。エレノア様は伯爵家にお嫁ぎになってから、お嬢様を出産されました。ブランシェ様といいます」
「ブラン…シェ様…」
ユリウスは静かに呟いた。
「ここからの話は、非常に内密な話になるのですが」
リネットは声のトーンを落とし、続けた。
「エレノア様はブランシェ様を出産されてすぐ、馬車で野盗に襲われたことがございます。お怪我などはありませんでしたが、その時にブランシェ様は一度野盗に攫われてしまったのです。大騒ぎになりましたが、2ヶ月後にブランシェ様は無事に発見されました」
「攫われた?」
ユリウスが驚いて尋ねた。
「そうです。16年前の春のことでした」
「16年前の春!?それは私がブランを馬小屋で見つけたのと同じ頃です!」
ユリウスは、額に冷たい汗が滲むのを感じた。彼のグレーの瞳は大きく見開かれ、目の前に広がる肖像画と、脳裏に浮かぶブランの顔が重なり合う。手のひらが震え、思考は激しい渦を巻き始めた。
リネットはその様子をじっと見つめ、静かに口を開いた。
「ユリウス様、今お考えになっていることは……どうか、まだ胸にお秘めください。ブランさんは、まもなく旦那様の養女になられます」
その声音は、ユリウスの胸奥を覗き込むようだった。軽率な言動がブランを危険に晒すことを、彼女は何よりも恐れている。
「……わかりました。私もブランを危険な目に合わせたくはありません」
短く、しかし重い響きを伴ってユリウスは答えた。真剣な面持ちで見返すそのグレーの瞳には、固い決意が宿っていた。もし自分が考えていることが現実であるならば、その事実は彼女の平穏を脅かす。長年、家族のように過ごしてきた少女を、何よりも守らねばならない──そう強く心に誓った。
その夜、ユリウスは自室に戻っても眠れなかった。蝋燭の炎が静かに揺れる中、これまでのブランとの日々が脳裏に浮かび続ける。笑顔、拗ねた顔、真剣に耳を傾ける顔……幼い頃の面影は、肖像画のエレノアと重なり、そして何より、公爵と同じ色の瞳が鮮やかに蘇る。もはや、それらが偶然の積み重ねだとは思えなかった。
一方その頃、別室ではリネットがクロードと向かい合って座っていた。
「ユリウス様は、きっと真実に気づいていらっしゃるでしょうね」
静かな呟きに、クロードはゆっくりと頷く。
「ええ。しかし、あの方は聡明です。ブランシェ様の安全を第一に考えてくださるでしょう」
リネットの瞳は決意に満ちていた。ユリウスならば真実を知っても、ブランを守るために動いてくれる──その確信は揺るぎない。ブランが、公爵家の血を引く者であるという思いは、もはや彼女の中で疑いようのない事実となっていた。