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第1章 霧の瞳と銀の騎士

 あたりが闇に包まれ、星々が瞬き始めた頃、王都へと向かう一台の馬車が人気のない街道を走っていた。街道の両脇には鬱蒼と茂る森が広がり、時折聞こえる夜鳥の声だけが静寂を破っていた。

その馬車には、田舎で無事に出産を終え、自邸へ戻る母親と、その娘が乗っていた。しかし、突然の野盗に襲われ、馬車は急停車を余儀なくされる。母親の悲鳴と御者の怒声が響く中、野盗の一人が静かに眠る赤子を抱き上げ、闇の中へと消え去った。


 ある日、シュヴァリエ辺境伯の息子である少年騎士ユリウス・クレメント・シュヴァリエは、父の領地視察に同行し、近隣の町を訪れていた。ユリウスは背が高く、月光を宿したような銀の長髪と、深い霧を閉じ込めたようなグレーの瞳をしていた。教会の視察を終え、次の場所へ向かう途中、夕暮れの空が茜色に染まる頃、道端の古びた馬小屋から微かな赤子の泣き声を聞いた。

ユリウスは一人、馬小屋へと足を踏み入れた。中は薄暗く、埃っぽい匂いが立ち込めていた。奥に進むと、藁の山の上に小さな布の包みが置かれている。そっと包みを開くと、中には生後間もない赤ん坊が既に泣き止んだ様子で静かに眠っていた。その幼い顔はまるで、花びらで描かれたかのように愛らしい。

驚きながらも、ユリウスはすぐに赤ん坊を抱き上げ、父であるシュヴァリエ辺境伯の元へ駆け戻った。辺境伯もまた、ユリウスと同じ銀の髪とグレーの瞳を持つ、威厳に満ちた紳士だった。一体誰が、こんな場所に赤子を捨てていったのか。

皆で顔を見合わせる中、ユリウスは赤ん坊を抱きながら、ふと馬小屋の地面に目をやった。乾いた土の上に、誰かが指で書いたと思われる掠れた文字が目に飛び込んできた。それは一文字――「ブラン」。

ユリウスはその文字をそっとなぞった。「ブラン…この子の名前でしょうか。」

「他に手掛かりはないのか?」

シュヴァリエ辺境伯の問いに、ユリウスは静かに首を振った。他に手がかりは見当たらず、赤ん坊はそのまま町の孤児院で育てられることになった。そして、馬小屋の地面に書かれていたその一文字が、彼女の名前となったのだ。


 それから十数年の月日が流れ、ブランは美しい少女に成長していた。陽光を編み込んだようなゆるやかな巻き毛と、深海に光が射し込んだような、吸い込まれそうな透き通った青色の瞳を持つブランは、いつも明るく満ち足りた日々を送っていた。

ブランは孤児院の年長者として、幼い子供たちの姉のような存在だった。ケンカをした子供たちを優しく仲直りさせたり、裁縫が得意なブランは、破れた服を繕ったり、時には余った布で人形を作って子供たちを喜ばせたりしていた。ユリウスはそんなブランを微笑ましく見つめていた。その愛らしい笑顔と思いやりに満ちた行動は、孤児院をいつも温かな空気で包み込んでいた。

 

 ブランは時折、シュヴァリエ辺境伯邸に招かれることがあった。広大な庭園の一角にある東屋で、ユリウスはブランに様々なことを教えてくれた。

(ユリウス兄様は、どうして孤児の私に、こんなにも優しくしてくれるのだろう。貴族の子供たちが習うような読み書きやマナーを、どうして私に…)

ブランはユリウスの深い優しさに触れるたび、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

「ブラン、この文字はこう書くんだ。読み書きができるようになれば、君の世界はもっと広がる」

ユリウスはそう言って、紙に文字を書いて見せた。ブランは真剣な眼差しでそれを見つめ、一度見ただけで完璧に真似をしてみせた。

「貴族はこうしてお辞儀をする。美しく、優雅に見えるようにね」

そう言って、ユリウスは丁寧に淑女の礼の仕方を教えた。ティーカップの持ち方から、フォークとナイフの使い方まで、貴族として必要な知識とマナーの全てを彼は惜しみなく教えた。ブランはユリウスに教わる時間が何よりも好きだった。

 ある日、いつものように東屋で本を読んでいたユリウスが、ふと口を開いた。

「ブラン、君がどうして『ブラン』という名前なのか、知っているか?」

突然の問いかけに、ブランは首を傾げた。「いいえ。孤児院に来た時から、院長先生がそう呼んでいました」

ユリウスは懐かしそうに目を細めた。

「実は、君を初めて見つけたのは私なんだ。馬小屋の地面に、誰かが指で『ブラン』と書いてあった。それ以外の手がかりは何もなくてね。それで、君をブランと名付けたんだ」

「ユリウス兄様が、私を…見つけてくれたの?」

ブランは驚きと感動で瞳を潤ませた。身寄りのない自分の存在を、この広い世界でただ一人、ユリウスが見つけ出してくれた。その事実が、彼女の心に温かい光を満たした。

「ああ。だから君は私にとって、特別なんだ」

ユリウスはそう言うと、ブランの頭を優しく撫でた。

「ブラン、とても立派になったな。君は自慢の妹だよ」

そう言ってユリウスは優しく微笑んだ。

「ユリウス兄様のおかげです。全部、兄様が教えてくれたことだから」

ブランはそう答えると、恥ずかしそうに笑った。


 ユリウスとブランの交流を見ていたシュヴァリエ辺境伯は、ブランの聡明さと愛らしさに、いつも感嘆していた。読み書きやマナーを教えれば教えるほど、ブランは驚くほどの速さで吸収していく。ブランの学びに対する真摯な姿勢は、辺境伯がこれまで見てきた他の子どもたちとは比べ物にならないほどだった。

「ユリウス、あの娘は本当に非凡な才を持っているな」

ある日、辺境伯はユリウスにそう語りかけた。「ええ、父上。ブランはどこの貴族の令嬢にも見劣りしませんよ」

「もしあの娘が、どこかの貴族の娘であったなら…いや、もしシュヴァリエ家の娘として育てることができたなら、どれほど素晴らしいことか」

辺境伯は、ブランの可能性を惜しみ、静かにそう呟いた。それは、孤児という身分が、彼女の未来を閉ざしてしまうことへの、どうしようもない悔しさからくる言葉だった。


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