第55話 いってらっしゃい(ただいま)
さあ王都へ行こうぜ! と勢いつけたのはいいものの、やらなくちゃいけないことがいくつかある。
そのうちの一つが、この屋敷に魔法をかけて周囲から隠すこと。
あー、すみませんね。魔法を片っ端から無効化しちゃうはた迷惑な奴がいて。って俺のことだけど。体質だから仕方がない。悪気は全くないんです。
さすがに大昔の魔法使いみたいに一人ではできないので、ギルドの有能な魔法使いサマたちで協力して魔法を行使するんだとか。
そんなはた迷惑な俺はユーウェと一緒に湖まで来てる。
ユーウェも手伝うのかなと思ったら、魔力が強すぎてバランスが崩れるからという理由でお役目なし。
ってことで! 邪魔者な二人でゆ~っくり時間を楽しんじゃうからね! はっはっはぁ!
「お魚ともお別れかぁ。寂しいなぁ」
哀愁をたっぷり含んだ声でつぶやくユーウェ。
森の間を流れる木々の香りを含んだ風が白銀の髪を揺らす。綺麗だ。
でも、たぶんお魚さんたちは安心していると思うよ。ある日突然、湖の端っこに整列させられるとか、びっくりしたってもんじゃないだろうから。
あれは心臓に悪かった。死んだ魚の目のようっていう表現はよく聞くけど、幾百もの魚の目に見つめられて精神が死にそうになったのって俺が初めてじゃないかな。
「王都じゃ釣りは無理だけど、森じゃできなかったこととか、聖女だった頃にやりたかったことをしよう」
「やりたかったこと……ま、街をぶらぶら目的もなく歩く、とか?」
ちらりとこっちを見上げてくる瞳が、期待にあふれている。
そんな目をされたら、ほら、俺の心臓と喉からごっぎゅんと音が鳴った。
なんて素朴な願いなんだ。簡単すぎて涙が出そうだ。
教会じゃ自由にできなかったんだな。以前見た時は周りに護衛がたくさんいたし、市民に囲まれてしまっていた。ぶらっと気の向くままに街を歩くなんて到底無理だったはず。
一気に狭くなった喉を広げるようにケホっと咳払いして、無理矢理に頬を上げる。
「ユーウェ、ブラ歩きなんて初歩の初歩」
「え、じゃ、その上は?」
「王都では買った食べ物をその場で食べたりできる。そう、買い食いだ!」
「買い食い!」
ユーウェの瞳が湖面よりもキラキラと輝く。
ふっふっふ、食いつきがいいね!食べ物の話題だしね!
「それにパンや、お菓子だったら食べ歩きもできる!」
「食べ歩き!馬車から見たことある!」
くっ……なんか涙が出そう!
聖女って大変だったんだねぇ。王都に戻ったら、食べたいものをたんとお食べ。お金持ちになる予定のお兄さんがなーんでもおごってあげよう。むふふ。って怪しいな。ちょっと落ち着け、俺。
「でも、私が堂々と街を歩いたらいけないよね?」
確かに、白銀の髪と誰もが見とれる美貌をもつユーウェは気軽に街歩きなんてできないかもしれない。
でも、こっちにはカメリアという変態がいる。そう、男なのに女にしか見えない変装ができる化け物だ。
「安心して。カメリアなら上手に変装するのを手伝ってくれるはず」
「そっか……カメリアがいてくれるね」
ふっ、俺は心が広いからな。あんな変態野郎にも才能があるということを認めてやるのさ。よし、あとでぶん殴っておこう。
二人並んで湖を眺める。
この湖の底の奥深く、どこかに埋葬されたあの子は今はもう土に還ってしまっているだろう。
この場所は、悲しい場所ではない。太陽が照らす湖面の輝きは、まるであの子が生きた日々のようだ。
「ユーウェ、絶対に幸せになろう」
突然の俺の言葉にユーウェが顔を上げる。
長いまつ毛で縁取られた瞳が揺れる。
二度、三度と銀の光が瞬いた後、一際強い輝きが煌めいた。
「私はもう十分幸せだよ」
ふわりと、花が咲く。
唇が震えた。
あの日、零れ落ちてしまった命が芽吹いて新たな花を咲かせている。
誰よりも、どんな花よりも強く、美しい花だ。
胸の奥を締め付ける痛みが一段と強くなって、ふっと消えた。
それは開放にも似た許し。
幸せな最期を迎えられなかったと思ったあの子は、もしかしたら幸せでいたのではないかと。
それは誰も分からないこと。湖の奥深く、誰も届かない場所でひっそりと土に還ったあの子だけが知る真実。
それでも太陽の光に照らされた湖が鏡のように煌めいたのを見て、俺の目から一粒だけ涙がこぼれ落ちた。
さようなら、また、いつか――
「お、魔抜けヴェインだ」
「げ、あいつ生きてたのか」
「おーい、生きてる方に賭けた奴いるか?」
「あー、いなかったんじゃねえか?」
「絶対おっ死ぬと思ってたのに。しかも王都に戻って来るなんて」
「あいつの金が回ってくるのを期待してたのに」
「誰だよ、絶対戻ってこねえからツケで飲むって言ったやつ。すぐに返せよ!」
裏路地のぎりぎり小汚いと評される食堂に入った途端わちゃわちゃと聞こえた声に、ぴきりと額の血管が切れそうになる。
人の生死を賭けたうえに、報酬を横取りしようとか。さすが裏路地だな! アットホームすぎて涙が出るぜ! こんちくしょー!
騒ぎに参加せずに、食堂の隅でスカスカの歯を見せニヤついている爺どもには軽く手を振ってご挨拶するのは忘れない。
「このくそ野郎ども! 賭けた金、全部俺によこせ!」
「んだぁ!? ヴェインのくせに!」
「いいだろ! んで、その金は全部ユーウェにやるからな!」
びしっと指先を馬鹿野郎どもに向ける。
全員俺が戻ってこないに賭けるとか、冗談じゃねえ。
だったらがっぽり貰って、俺の命の恩人でもあるユーウェにあげるのが正しいんじゃねえ?
ってことでよこせ!
賭けの元締めをやっていそうな男の前にずいずいずいっと右手を広げる。おら、出せ。とっとと出せ。
「え? ユーウェ? 誰?」
「誰だれ? 女?」
「魔抜けに女なんてできねえだろ」
「ヴェイン、死にかけてついに頭がいかれたか……」
「そんなことになるならいっそ死んじまったほうが」
「……おーまーえーらーーーー!」
男たちの中には俺と同じ魔抜けもいるってのに、こいつら……。
顔が引きつりそうになるのをぐっとこらえ、俺の後ろに隠れるように立つユーウェとつないだ左手を引く。
そっと俺の横に並び、かぶっていたフードをはらりと落とす。
薄暗い裏路地の明かりのもと、銀色の輝きが広がる。
直後、そこそこの広さがある食堂がしんっと静まり返った。
ぽたり、と誰かのカップからこぼれた雫が床に落ちる。
そして――
「あんぎゃああああああああ!」
「うおおおおおおおおおお!?」
「……ひぃ!? 女神様!?」
「お、俺、死んだ」
「えええあああああああ!?」
暗殺ギルド『裏路地』――本来であればひっそりとしているべき場所がかつてないほどの叫びで満たされた瞬間だった。