第20話 チカウ
「聖女様、手を!」
横倒しになった馬車の扉が開き、赤い空が見えた。
影になった男のシルエットに体が震えた。私の命を、あるいは体を狙って執拗に馬車を追ってきた兵士たちだと思った。
でもすぐにそれが御者だと分かって手を伸ばす。
御者は私の手ではなく、両手の間をつなぐ鎖を掴んだ。
――パキィ!
軽い音を立てて、鎖に付されていた魔法が砕けた。
驚きに固まる私の目の前で、御者が苦悶の叫びを上げる。
後ろから兵士たちに切り付けられたのだ。
パラパラと鎖が落ちて馬車の内部に散らばる。
痛みに歪む御者の顔を見上げて、私の心が痛む。
早く、早く助けなければ。
心臓がかつてないほど早い鼓動で私をせかす。
夢の中で見たあの御者ではないこの人は、必ず助けなければならない。
自分の中にこれほどの感情があったのか。
焦りと不安。
相手を助けたいという願い。どんな重病人にも、貧困に飢えた子供にも感じなかった思い。
馬車に転がりこんできた御者の頭を守るように両腕を伸ばす。
破れたクッションの中からとび出た藁が宙を舞った。
御者の目がこんな時だというのに柔らかく細められた。
血の匂いが狭い馬車の中に充満する。
スリッと頬を寄せるようにして、御者の手が私の頬に触れる。
違う。彼がしようとしているのはこの邪魔な口枷を外すこと。
何を勘違いしているのか、私は。
温かな手が私の首元から頬を包む。
カタリと音がした。
開きっぱなしになっていた口元を反射的に拭う。
そんなことしている場合じゃないのに。
「……がとう」
かすれた声でお礼を言えば、彼の口元が嬉しそうに笑みを描いた。
私のせいなのに。
全て、私が引き起こしたことなのに、笑わないで。
私は、怪物になる定めの女。ここが私という人間の墓場……だったはず。
馬車の中に倒れこんだ御者をそこに残し、私は外へと飛び出した。
すでに編み始めていた魔法が手の中から弾ける。
二人。
見開かれた両目が瞬きをする間もなく、意識を刈り取る。
地面に崩れた兵士の隣に立ち、頭を軽く足で小突いてその顔を確かめる。
こいつらだ。
夢の中で何度も、何度も、延々と私をなぶった男たち。
握りしめた両手。手首にまとわりつく手枷の感触が、私を抑え込む男たちの手の熱のように思えて引きちぎる。
ガシンガシンと音を立てて転がったそれらを、わざと兵士らを狙って蹴とばした。
身体強化をかけたままの威力で弾かれるように飛んだそれは、兵士の鎧を砕く。
すべて、こいつらの、せいで。
ドロドロに溶けた溶岩のような感情が腹の奥で渦巻く。
「……ブルル!」
馬の声に意識が戻った。
のろのろと顔を上げる。
二頭の馬が、横倒しになった馬車の前でもがいている。
「……助けなきゃ」
燃え上がった憎悪で麻痺した脳が、動き出す。
転がるように足を進める。
馬車の中を覗き込めば、背中を赤く染めた御者の姿。
「治癒を!」
少なからず王国最強だと誇る私の魔法は、御者の体を癒すことなく霧散する。
なぜ!
両手を見下ろした私に、御者は目を開けて、眩しいものを見るように目を細めた。
「馬車、椅子の、下、服と、金とか、食いもん、ちょっとだけ、入ってる。持ってって」
かすれた声が告げる。
自分はここに置いて行けと。
ここが、死に場所だと言っているようで。
違う、違う、違う。
ここは、私が、私の存在も、尊厳も、過去も、未来も、全てを失う場所だ。
あなたじゃない。あなたが死ぬ場所は、ここじゃない。
「なんで……最初から、私を逃がすつもりで?」
私の問いかけにも、その人はちょっとだけ口元を緩めただけで何も言わない。
嘘だ。
やだ。
だめ。
満足に言葉にならない感情が、砕けたガラスのように喉奥に散らばる。
音にならずに消えたそれらを飲み込むように、唇を引き結んだ。
ここは私の死に場所でない。
まして、彼の死に場所でもない。
夢で自分が怪物になると悟った時でも、諦めなかったではないか。
まだ、何かできるはず。
ここに私がいる意味を。
魔力を持っている私と、魔力を持たないこの人と。
そう、夢だ。
夢の中で見た魔法陣。
今の私の中には、あの知識がある。
広げた両手に目を落とし、それから顔を上げた。
「待っててください」
私は、あなたを必ず助ける。