第16話 ハリボテ
夢を、見た。
それは現実よりも鮮明で、悪夢よりも残酷だった。
死の森で生まれた怪物が王都を襲う。
森を、家々を、人を焼く。
空に何重もの魔法陣を浮かべ、消えることのない火を降り注いだ。
誰にも止められない悪夢。
魔法使いとして名をはせた人たちが束になっても、怪物を倒すことはできない。
輝かしくそびえたつ王城や教会も、無残に壊されていく。
助けを求めてそこに駆け込んだ人々は、なすすべもなく瓦礫の中で息絶えた。
黒く立ち上る煙を吸い、魔法陣が一際輝きを増す。
そこにあるのは、地獄だった。
「――様、聖女様?」
呼びかけの声に顔を上げる。
儀式のために煌びやかな礼服に身を包んだ司教が、感情のない目を私に向けていた。
「……参りましょう」
落ち着かない鼓動を悟られないように、小さく息を吐く。
一歩、二歩と足を進めれば、通路の両脇に立つ兵士や司祭たちがうやうやしく頭を下げた。
まだ十歳にもならない小娘。心の中ではそうやって私を侮っているに違いない。
結局、彼らが見ているのは聖女という私の抜け殻。
その中にいる女がどんな性格で、どんなことで笑い、どんなことで落ち込むのかなど関係ない。
ただそこにハリボテとしての存在がいれば満足なのだ。
先ほど見た司教の目となんら変わらない硝子のような目で、私は聖女を一目見ようと集まった群衆の前に立った。
空虚な日々に罅が入ったことに気付かずに。
夢は続いた。
王都を焼いた怪物は、満足することなく世界を混沌に陥れていく。
国境など関係なく青い空を黒雲と鈍く光る魔法陣で覆い、進んでいく。
何千人、何万人の命を奪っても満足しない貪欲な怪物。
死の煙の臭いが夢の中から私を苦しめた。
「……なんでこんな夢を」
朝から疲れたため息を吐き、汗ばんだ首筋に張り付いた髪の毛を払う。
不安が募る。
少しずつ、聖女としての勉強の合間に死の森について調べている。
私が産まれるずっと昔、偏屈な魔法使いが住んでいたという場所。
魔法使いが残した罠があるとか、実験に使った生物がいるとか、信憑性のない噂ばかり。
「魔法陣……」
あれは何だ。
夢の中で、私はあれを見た瞬間に魔法陣だと分かった。
教えられたこともない、見たこともないのに。
魔法とは異なる原理で動いているのはすぐに理解できた。
魔法使いたちが束になって抵抗しようとしても叶わないほど圧倒的な力。
逆に、倒れる魔法使いたちが増えれば増えるほど、力を増していたようにさえ見えた。
ブルリと体が震える。
汗をかいているのに、体から体温が奪われるような悪寒。
その日から、私は魔法陣についての情報を探るようになった。
聖女としての務め、聖女としての振舞い、聖女としての――無視された感情の死骸が、ハリボテの底に澱んだ澱のように溜まっていく。
私は一人の人間ではなく、聖女という偶像。
勉強を隠れ蓑に一人になれる時間は救いとなった。
死の森や魔法陣をきっかけにして、私は教会の外の世界に憧れるようになった。
「王都の中にある教会を慰問したい」
「聖女様、それは」
「ここに来れない信徒も大勢いるはず。神はそれらの信徒を見捨てないと示すべきでしょう」
反論しようとした司教の言葉を遮り、私はこれは聖女としての職務の一環だと告げる。
記憶にも残ってもいない自分の父親よりもはるかに年上の司教は、表面上は恭順の意を示して去っていく。
その後姿を見送り、私は再び知識を求めて聖女や王族にのみ許される書物庫へと足を向けた。
ああ、夢だ。また、夢が始まる。
くぐもった悲鳴が聞こえる。
枷をはめられた両手を伸ばし、轡をかけられた口から助けを求める。
地面に押さえつけられ、抵抗を封じられた美しい女の上に、醜い男たちが群がる。
――魔法さえ封じればただの女だ。
――死の森に捨てる前に楽しもうぜ。
――せいぜい俺たちを楽しませてくれよ、聖女サマ!
悲鳴が、上がった。
寝台から飛び起き、止まない悲鳴を口から漏らす。
体から魔力が溢れ出す。
魔法という形を取らずに放たれた魔力が周囲を切り裂いた。
鼓動が暴れる。
感情を殺して生きてきた私の心臓が、かつてない速さで脈を刻む。
あれは、私だ。
死の森の怪物。
魔法を封じられ、羽虫のように地面に張り付けられて凌辱される女。
逃げ込んだ先、死の森の奥で見つけた魔法陣を発動させ、自我を失った悪魔。
この世界を、人を憎み、全てを滅ぼすことだけに意志を奪われた憎悪の塊。
ああ、なんてことだ!
『私は、聖女ではなくなる』
浮かんだ言葉が頭の中で廻る。
死の森の怪物になって殺戮を繰り返すことに嘆くでもなく。
私はただ聖女という地位を失うことを恐れた。
「ははっ、あはっ、はははっ!」
なんてこと。
聖女である自分を恨み、聖女というハリボテを尊ぶ周囲を恨んだ私が。
自分自身が、この空虚な座を失うことを一番恐れている。
その事実が、何よりも私を打ちのめした。