第1章 蛇は大いに武を奮う
晴天の日差しが燦燦と降り注ぐ、のどかで小さな港町。
そんな港町に、不釣り合いな大型帆船が泊まっていた。この辺りではなかなかに見られないガレオン船の威容に、町の人々がどこの富豪だ交易商だと見物に集う。
そこへ一台の馬車が、猛スピードで走り込んで来る。
「準備は出来ているか!?」
中から大急ぎで降り立った小太りの中年が、叫ぶ。
身に着けた衣服から装飾品まで豪華だが、男の顔色は焦燥感のためか青ざめている。
「出来ております! 頼まれた荷物も既に…」
船から船長らしき日焼けした筋肉質の髭の男が、急ぎ桟橋を下りて来る。
「すぐにでも出せるか!? いや出せ!早くしろ!」
男は周囲を窺いながら、船の出立を急き立てる。
「誰かを待っておられるのですか…?」
「馬鹿が! 逆だ! 狙われておるのだ! いいから早く船を出せ! 金なら後でいくらでも払ってやる!」
「わ、わかりました」と慌てて答え、船長は男を船まで案内する――
船は雇い主だけを待っていたかとばかりに、慌ただしく港を離れていく。
出航してから船の周囲が一面、海原に包まれた頃――
港の方をずっと警戒していた雇い主の男が、船長に尋ねる。
「……船長。周りに不審な船は近づいておらんな?」
「はい。そのようなものは見えません」
返事を聞いて、ようやく安堵の溜息をつく男。
「しかしタベンロード卿。一体何に狙われているのですか?」
グリック・タベンロードは豪商であり、爵位、女の身体、人命、人の尊厳、裁判の結果…とあらゆるものを金で買ったため、多くの人間から怨みを買っていることは知られている。
「『コウ蛇』と呼ばれる殺し屋を知っておるか?」
「『双蛇』の片割れの?確か引退したと聞きましたが…」
『双蛇』とは、『陰蛇』と『コウ蛇』からなる二人組の殺し屋で、数十年にわたって活動を続けてきたとされる。
その実力と依頼達成率はトップレベルとされ、裏の世界に詳しくない船長でも、耳にした事くらいはあった。
「そうだ。だが現れたのだ。罪無き私を脅迫して来た。私の雇った傭兵たちは、どいつもこいつも役立たずで…クソッ!」
イラついた様子で毒づく。
「ともかく手に負えなくなって…おかげでこのざまだ。あぁ…だが家財は積んでいるから、君たちに支払う金はある。心配するな」
「………」
とんでもない客を乗せたもんだ、と呆れ顔になる船長。
「それで…その…」
船長は船首の方に視線を向ける。
そこには、ズラリ…と整然と列を為す武装した兵士の一団。
全員がフード付きマントで顔を隠しているが、そこから覗く肌から眼球に至るまでが真っ白で、生気を感じられない。
よく目を凝らすと、その身体が石膏で出来ているのが分かる。
「あれは一体何なんですか…?」
「彫像を乗せると言っておいたであろう? あれは私の護衛となるゴーレムの一種だ。材質は石膏で、魔法で『硬度強化』と『軽量化』を図っている。戦闘能力も、並の兵士とはわけが違うぞ」
「護衛…ですか。しかし何故人間ではなくゴーレムを用いるのですか?」
「人間と違って、魔法生物は裏切らない…というのは冗談だが」
冗談を言う余裕ができたためか、笑みを浮かべるタベンロード卿。
船長は冗談と思えず、笑み一つ浮かべない。
「傭兵たちは役立たずな上に、口答えや言い訳ばかりするのでな。それに『コウ蛇』の手口は、殺し屋の中でも直接的な暗殺で、一対一の対人を想定したものだと聞いておる。それならばと痛みを感じず、生き物としての器官を持たない魔法生物をこれだけ揃えたのだ。いかに殺しに長けても、破壊となれば勝手が違うだろうよ」
薄気味の悪い声で笑う男。
基本的に『双蛇』と呼ばれる二人一組の暗殺者は、『陰蛇』がまず護衛相手に多対一で大立ち回りを演じて注意を惹きつけ、その間に『コウ蛇』が目標に近づいて始末する――という情報を、タベンコート卿は聞きつけていた。
「だが『コウ蛇』と言えども、海の上なら追っては来れまい。しばらくは新天地で穏やかに過ごすわ」
脅威は去り、後はこの世の春とばかりに笑う男。
ずらりと三十体ほど並ぶ石膏像達の前で、指揮官のように居丈高に立ち、仰け反って空を仰ぐ。
彼の心を映しているかのように、空は快晴だった――
――が、仰いだ体勢になったことで、彼はそこで中央の帆柱に掴まり、こちらを見下ろしている人影が居ることに気が付く。
「――――」
みるみるとタベンコートの笑みは凍り付いていき、先の顔色に戻っていく。
船長らも雇い主の反応から何事かを察し、帆柱を見上げる。
見るとその人物は、極東の国々に伝わる男性用のグレーの漢服を身に着けていた。
長い銀の髪を三つ編みにしており、瞳は深い青。優し気な眼差しだが、物憂げにも見える。
服の上からでも分かる胸のふくらみから、女性の肉体であると判明する。
「ひっ――や、奴だ! 私を守れぇ!」
男がすぐさま兵士らの後方へと避難すると、石膏のゴーレムたちの瞳が、命令に反応してブゥン――と赤い光を帯びる。
バッ――と『コウ蛇』とされる女性が帆柱から手を離し、そのまま四肢を広げて落下してくる。
石膏兵たちは、整列したまま槍を構え、命令に従って落下してくる敵に備える。
動きも人間のそれと比べると少々ぎこちないが、正確だった。
落下してくる無防備な目標を見上げ、槍を構え、一斉に突き上げる――――
――――槍が目標に触れた瞬間。
どろり…とまるで肉体が溶解したかのように女の肉体は、槍にまとわりつき、ずるずると滑り降りていく。
槍の穂先はその衣服の繊維を引き裂くに留まり、軟体動物のような肉体はずるり…と甲板に倒れ伏す。
『――――!?』
女を取り囲んだ石膏兵たちは、何事か起きたのかと一瞬躊躇するが、そのまま槍を持ち替え、今度は穂先を下に向け、一斉に突き下ろす――
――その刹那。
一陣の暴風が、取り囲んだ石膏兵たちを巻き上げる。
爆発のような暴風を巻き起こしたのは降り立った女。
その手に握られた一本の黒い棒――『棍』だった。
下段で振り回された棍によって、脚を滑らせたかのように、ふわりと不安定な体勢で宙に浮かぶゴーレムたち。
そこへ――ガガガガガガガッ…!と破砕音が絶え間なく鳴り響く。
振り回した直後に、今度は四方八方に高速で突きを放っていく女。
棍による強烈な突きは、石膏兵の頭を易々と砕き、身に着けた胸甲をひしゃげさせ、軽々と吹っ飛ばしていく。
次々に吹っ飛んだ石膏兵たちは船縁を越えて海へと落ちていき、船のマストや味方にぶつかった兵は、そのまま動かなくなる。
「な…なっ…!」
阿修羅の如き棍法で以て、いきなり十体もの石膏兵が薙ぎ倒した女。
『コウ蛇』の名に相応しい武威に身を竦ませるタベンロード。
(事前に集めた情報では、棒術を使うなど無かったぞ…!)
「――どうせ素手で来ると思ったんでしょう?」
「……っ!」
ここに来て、始めて口を開いた殺し屋。
整った顔立ちに、女性にしては高い身長でしなやかな肉体。
その身長より長い棍を肩にかけ、ひたとターゲットを見つめる。
「ゴーレム相手なので、今回は打撃武器を選んで来たの。一応言っておくけど、素手でも破壊は可能」
真っ白な肌。そしてエルフ特有の尖った長い耳。
目標を見つめる虚ろな瞳は、どこか気だるげな様子を思わせる。
「な、なめるなよ!ゴーレムはまだまだ居るわ!」
中年男が指を鳴らすと、船倉からぞろぞろと石膏兵の新手で出て来る。
表情のない魔法生物たちは、十重二十重に女を囲む。
女が自らの棍におもむろに手を這わせると、黒い棍に白い紋様が浮かび上がっていく。
「――かかれぇ!」
タベンロードの声と共に、どっと襲い掛かる石膏兵の群れ。
いざ交戦点に達しようとした時。
女は伸ばした掌の先から、光る棍を飛ばす。
『天鵰棍・玲瓏――』
持ち主の手を離れた棍は唸りを上げ、回転しながら数メートル先の敵兵の群れに、自ら飛び込んでいく。
暴威の渦となった根の両端は、それぞれ石膏兵の頭を粉々に砕く。
一方で女は、棍を投げつけた方向とは逆側の石膏兵たちに向かって走る。
突き出される槍をかいくぐったと思えば、鋭い裏拳で、容易く頭蓋を砕く。
例え味方があっさりと頭を粉々にされようと、別の突撃兵は意にも介さず、槍を突き出す。
女は躱しざまに相手の得物を掴んで引っ張り、交差するように肘で頭を砕く。
「………ッ!」
迫りくる暗殺者を後方で眺めていたタベンロードの顔が、驚愕に歪む。
魔法で強化されたはずのゴーレムが、次々と素手で容易に破壊されていく光景は、彼を絶望に追い込んでいく。
ギュルルッ…と回転しながら棍が手元に戻って来ると、女は基本的な構えで根を握りしめ、思い切り右前方に突き出す。
鋭い突きは、女から見て右の歩兵の喉から首を砕く。
ボロッ…と頭部が転がり落ちるのを見届けることなく、棍をそのまま左へブン――!と薙ぎ払う。
バカァンッ…と、今度は左の歩兵の側頭部を強かに叩き、吹き飛ばす。
石膏が砕け、白い粉がまき散らされる。
『鴛鴦棍・連獅子――』
「バッ…化け物か! 止めろ! アイツを何としても止めろぉ!」
口から唾を飛ばしながら、必死になって命令するタベンロード。
大金を費やしたゴーレム部隊が為す術もなく薙ぎ倒され、憔悴し切っていた。
女は再び白い紋様の浮かんだ黒い棍を放ると、もう一方から突進してくる敵兵に備える。
石膏兵たちは、己が槍を突き出せるだけの空間を的確に判断し、むやみに突撃して味方と団子状態になるようなことはしない。
だがその正確性を以てしても、殺し屋の女を止めることはできなかった。
繰り出される槍の穂先を、上体を反らして躱すと、ぶぅん――と女の左腕が蛇のように飛びかかり、敵の喉笛を掴む。
みしっ…と音がする間もなく、親指と人差し指だけで、石膏兵の喉があっさりと砕かれる。
喉だけの損傷ならゴーレムは戦闘続行可能であろうが、首にまで亀裂が入り、支えていた頭がごろりと落ちる。
さすがのゴーレムも、頭を失えば活動を停止する。
続けて無数の槍を躱しざまに跳躍し、美しい動作で肉体をしならせ、滞空から高速の飛び蹴りを放つ女。
『紫電――』
薙ぎ倒すように石膏兵の側頭部を蹴り砕くと、脚はそのまま横に立っていた石膏兵の頭を二体、三体と砕いていく。
砕けた途端に撒き散った白い粉を、海風が運ぶ。
戦闘は護衛のゴーレムたちに任せて隠れている船長や船員たちも、女殺し屋の勇姿を唖然と眺めていた。
(破壊用の武器なんて必要ないどころか、徒手空拳でも充分ゴーレムたちに後れを取らないじゃないか…! いや…敵集団を一度に相手をするのが困難なので、棍に遊撃兼足止めをさせているとも言える…。いや待て待て待て…そもそも女は一撃ももらってないし、
単に面倒だから棍を使っているとも考えられる――)
決して足を止めず、一撃を放てば必ず倒す。
向かって来る敵は必ず倒し、向かってくる者が居なくなると、手当たり次第に薙ぎ倒す女。
それに対して、恐怖の感情を備えていない人造兵士たちは、戦況を窺う事はあっても、味方の死に怯む事は無い。
だがそのため戦力差を鑑みず、最後の一体まで破壊されようと、彼らは攻撃の手を止めなかった。
ヒュッ――と棍を右腋で挟んだまま、構えを解く女殺し屋。
冷静に手馴れた動作で辺りを確認する。
彼女の周囲には、活動を停止した石膏兵の欠片が無数に散らばっていた。
「ひ……ひぃいいっ…!」
大金を費やした自らの護衛が、遂に全滅するという悪夢の光景に、タベンロードはただ震える事しかできなかった。
「確かにこの魔法生物たちは精鋭だったし、命令通りに最後まで戦った。しかし冒険者たちのように連携を取る能力はないし、相手の力量に対して撤退するといった判断も出来ない…」
蒼い瞳を細め、憐れむ様に停止した魔法生物たちを見回す女。
スッ――と棍の先をターゲットに向ける。
「ま、待て…命を助けてくれるのなら、金は出す…」
男は船の縁に背をつけ、命乞いを始める。
「その金は、元々貴方の物じゃない。本当の持ち主に返すため、私はここに居る。そして貴方の死は、もう絶対――」
淡々と語る女に、豪商は益々怯え竦む。
「ひ…ぃい……」
「けれど、ま…別に貴方の抹殺を頼まれたわけではないし…」
「……?」
「船長。ボートを準備して、この男を乗せて下さい」
「へ、へい!」
女殺し屋の頼みを受け、船長は船員たちに海面にボートを準備させ、男を乗せる。
「………」
憐れな中年男は、その間も船長や船員たちに怯えた視線を向け、助けを求める。
だが船長たちに彼を救う気がなかった。
というより彼らは、女殺し屋と最初から通じていた。
「貴方の生死は、天に委ねる。このまま東の大陸へ向かって。運が良ければ命は助かる」
殺し屋は、ボートに乗ったタベンロードに船上から語り掛ける。
見ると大陸の方角では、既に広範囲に黒雲が漂っていた。
「き、貴様…呪われろ!」
「今すぐボートに穴を開けようか…?」
女の冷酷な瞳に射竦められ、男は慌ててボートを漕ぎ出す。
嵐のただ中に向かって――――