婚約破棄ごっこ
「お前との婚約を破棄する!」
男性にしては高く、女性にしては低い。そんな中性的なよく通る声が屋敷のホールに響いた。
突然始まった令嬢への糾弾にパーティー参加者は静まり返る。ついさっきまで流れていた優雅な楽曲も今ではすっかり止まってしまった。
「そ、そんな! あんまりです」
わざとらしくよろめく令嬢の姿を、婚約破棄を言い渡した人物は冷ややかな瞳で見下ろしていた。
「待ちたまえ!」
大袈裟な音を立てて開かれたホールの扉と、勇ましい声に貴族たちの視線が釘付けとなる。
次から次へと起こる展開にハラハラワクワク。まるで観劇でも楽しんでいるようだった。
「可哀想なアイム嬢。こんなにも可憐な君を捨てるなど、奴は見る目がないのだ。この私が新しい婚約者となり、永遠の愛を誓おう」
「まぁ! ターウィン様、私は真実の愛を見つけました。生涯に渡ってあなた様を愛します」
パーティー参加者から割れんばかりの拍手を送られ、幼さの残る可憐な伯爵令嬢と若い侯爵は結んだ手を挙げて歓声に応えた。
(えっと、次のセリフは……っと)
そんな幸せムードの中で唯一憐れみの目を向けられる人物はつまらなさそうにしながらも、悔しそうに肩を落とした。
「ぐぬぬぬ。ターウィン侯爵だと!?」
「アイム嬢は私の腕の中だ。ここに貴様の居場所はない。すぐに立ち去れ!」
タイミング良く現れたヒーローに体を密着させるアイム嬢の勝ち誇った顔は見事だった。まさに主演女優だ。
演技とは思えないその表情は、人ってこんなに悪い顔を作れるんだ、と感心してしまうほどだった。
婚約破棄を言い渡たす悪役を務めるヘカテリーナは一つ結びにした黒髪を揺らしながら、落胆した風を装ってホールを後にした。
◇◆◇◆◇◆
「ご苦労様。衣装はそこに置いてちょうだい。あなたのおかげで会場は大盛り上がりだったわ。これは報酬よ」
屋敷の客間で貸し衣装を脱いだヘカテリーナは一枚の金貨を見せつけられた。
ヘカテリーナの服装はとても貴族令嬢とは呼べないものだ。いわゆる騎士に仕える少年――小姓のようである。
元々、中性的な見た目のヘカテリーナは、デビュタントしてすぐに話し方を変えるように公爵令嬢に指示された。言う通りにしたことで気に入られ、貴族令嬢たちの輪に迎え入れられたのだった。
上位貴族の娘に勧められるままに男装したヘカテリーナは『男装の麗人』と呼ばれ、持て囃された時期もあった。
ダンスパーティーでは男性パートナーとして多くのご令嬢の相手をさせられたものだ。
アイム嬢は勘違いしているが、ヘカテリーナはお金が欲しくて婚約破棄を言い渡す悪役を演じているのではない。
最初は「婚約者の彼を振り向かせたいから協力して欲しい」という友人の頼みごとだった。
初めてのことで戸惑ったが、友人の描いたシナリオ通りにセリフを言うと見事に二人をくっつけることができた。
一時期は友人たちの間で『縁結び麗人』などという異名を付けられたこともある。
しかし、彼女たちが次々に結婚していくとヘカテリーナは未婚女性として取り残された。
久々に会っても新婚生活の話ばかりで話題にはついていけず、疎遠になるまで時間はかからなかった。
そんなある日、どこかで噂を聞いた貴族令嬢がヘカテリーナを利用して、両親や親戚一同が集まるパーティーで演劇を始めた。
何も聞かされず、いつも通りに悪役を演じたヘカテリーナのおかげでパーティーでの余興は大成功を収め、『婚約破棄ごっこ』という悪趣味極まりない遊びが社交の場での催し物として広まったのだった。
「田舎くさい男爵家の娘にこんな使い道があったなんてね」
「はぁ……」
「噂通りの麗しさだけど、婚約者なんていないでしょ?」
「えぇ、まぁ」
「だと思った。あなたからは気品を感じられないわ。縁談はおろか、生涯独り身の可能性だってあるわね」
「……っ」
「老後のために備えておくことね。少しは足しになるでしょ」
扉に背を預け、腕を組んで意地悪なことを言うアイム嬢がわざと金貨を落とした。金貨は転がり、ヘカテリーナの足にぶつかって倒れる。
拾え、と目で訴えてくるアイム嬢の前でヘカテリーナは片膝をついた。
「ふん。卑しい女」
用済みとなり、屋敷を追い出されたヘカテリーナを待っていたのは送迎用の馬車だった。
金貨を渡された上に送迎付きとはさすが伯爵家だ。羽振りが良い。態度は気に入らないが、彼女は友人の友人だから無碍にはできなかった。
ヘカテリーナは馬車に揺られ、小さな屋敷まで送り届けられた。
小屋に隠してあるドレスに着替えてから玄関を開ける。これがヘカテリーナのルーティンだ。
「おかえり、ヘカテリーナ。パーティーはどうだった?」
「とっても楽しかったです」
父から期待を込めた声で聞かれると、無理矢理にでも笑うしかない。
「あなたが伯爵家のご令嬢と知り合いなんて! しかも、パーティーにまで招待される仲だなんて知らなかったわ」
満面の笑みで手を取った母に曖昧な返事をしてそっと手を下ろす。
知り合いという意味では嘘ではない。ただ、知り合い方が普通ではないというだけだ。
両親からの質問攻めをはぐらかして、一目散に私室へ向かい、服を脱ぎ捨ててベッドに横たわった。
ヘカテリーナも18歳となり、縁談や婚約や結婚というものに興味がないわけではない。しかし、一代限りで叙勲される男爵家の娘に縁談が来ることはなかった。
父はそれを気にしているのか、ヘカテリーナの交友関係の話にはよく首を突っ込んできた。
そんなヘカテリーナには一抹の不安があった。
万が一にも『婚約破棄ごっこ』で小遣い稼ぎをする卑しい女だということが知れ渡ってしまっては、縁談はおろか家にも迷惑をかけてしまう。
かつての友人や依頼者が、『婚約破棄ごっこ』の男がヘカテリーナであることを明かしていないのは彼女にとって唯一の救いだった。
◇◆◇◆◇◆
「リヒド王太子はまた縁談を断ったそうよ」
ある日、ヘカテリーナに依頼を持ち込んだ貴族令嬢との雑談中にそんな話を聞いた。
リヒド王太子のわがままは今に始まったことではない。特に王太子妃となる女性にはうるさいと有名で、幾度となく縁談を破談にしている人物だ。
「キラキラしている人間は大変だな」
ヘカテリーナは話し方を装い、小姓の格好で新規の依頼主と密会していた。
「これまで顔合わせできた方はたったの3人。1人は他国の王女様だったって話よ。でも、結婚式のイメージが湧かない、と言われて破談になったんだって」
なぜ、今回の依頼主はこんなにも王太子の縁談話に詳しいのだろう。
そんなことを思いながら、彼女が持ち込んだ『婚約破棄ごっこ』のシナリオに目を通す。
どんなに馬鹿にされても、頼まれてしまっては断れないのがヘカテリーナの長所であり、短所でもあった。
シナリオの流れもセリフも全部覚えるし、必要に応じてアドリブも入れる。
この、ごっこ遊びは男性側が何も知らされていない場合と、知らされている場合とで対応が大きく異なる。
前者であれば要注意だ。
過去には激怒した本物の婚約者に殴られかけた。依頼主が説明して宥めてくれたから難を逃れたが、男性と取っ組み合いになれば勝てるはずがない。
危険を伴う遊びだからこそ、知り合いからの紹介でない限り、本名も身元も偽ってただの小姓として依頼を受けるようにしていた。
「承った」
「彼には知らせてあるから安心して。あくまでもパーティーでの余興だからね。報酬は弾むわよ」
「いえ、お金はっ」
「危険な仕事だもの。事件に巻き込まれないように注意してね。例えば、不貞のだしに使われるとか」
依頼主のウインクに見とれてしまったヘカテリーナは黙って彼女を見送ることしかできなかった。
当日の夜も両親にはパーティーに招待された、とだけ告げて家を出発した。
無事に依頼を完遂し、またしても金貨を受け取ってしまったヘカテリーナは、やるせない気持ちで帰路についた。
ある日の昼下がり。しばらく『婚約破棄ごっこ』の依頼がなかったヘカテリーナは、久々にダンスの練習をするために小川の流れる橋の下に向かった。
男爵家の経済状況ではヘカテリーナにまともな教育を受けさせることは難しかった。それでも彼女がパーティーに参加できているのは、友人たちによる教育があったおかげだ。
ヘカテリーナは男性役としてダンスパーティーでの相手をお願いされることが多く、そのためには練習が必要だった。
過去には幸運か不運か、公爵家専属の家庭教師にダンスのステップやマナーを教示してもらったこともある。とても厳しかったが、この機会を逃すわけにはいかない、と泣きながら食らいついたのは正しい選択だったと思っていた。
しかし、現在のヘカテリーナが練習しているのは男性役ではなく、女性役のステップだった。
ヘカテリーナは、いつか来るかもしれない日のために隠れて練習を重ねていた。
本物の王子様でなくても、自分にとっての王子様が現れてダンスに誘われてみたい。そのときに男性に恥をかかせないための練習だ。
これまで幾度となくダンスに興じてきたヘカテリーナは、その経験を生かして練習を続けた。服装はもちろんドレスである。ただし、他の貴族令嬢が普段から着ているような綺麗なものではない。
母のお下がりで所々がほつれた、お世辞にも立派とは言えないものだった。
頭の中で流れる一曲を踊り終えたヘカテリーナが一息ついたとき、ふと人の気配を感じた。
滅多に人と出会うことのない橋の下はヘカテリーナにとって申し分のない練習場所だ。それなのに今日は腰掛けながらスケッチブックに筆を走らせる男性がいた。
目深にハンチング帽を被った男性はヘカテリーナを気にすることなく、橋の下からの景色をスケッチブックに描いていた。
気に入らないのか、何度も書き直すたびに貴重なパンが削れていく。
「わぁ! とってもお上手ですね」
普段なら絶対に見知らぬ人に声をかけない。
しかし、今日のヘカテリーナは久々の女の子の格好で、しかも一曲踊り終えて気持ちが昂ぶっていたことで気軽に声をかけた。
あるいは彼の描く風景画に心を動かされたから、かもしれない。
「……なんだ。勝手に覗くな」
むっとした顔にならないように気をつけながら、謝罪してその場を離れる。
(わたしなら女の子を邪険にしないわ)
ヘカテリーナは普段から男装している時は男性らしくあることを心がけている。常に清く正しい対応をしろ、と友人たちに言われてからずっと守ってきた。
その友人も結婚式の後にはヘカテリーナに向かって鼻を鳴らしたのだが、彼女は今でも清く正しくあろうともがいている。
それから数日後。ヘカテリーナが橋の下に行くと、無愛想な絵描きがイーゼルに立て掛けたキャンバスに絵を描いていた。
ヘカテリーナは一瞬にして目を奪われた。
彼が描いていたのは、キラキラ輝く澄み渡った朝の空だった。
「きれい。ううん、美しいです」
「……またお前か」
ヘカテリーナをひと目見て、キャンバスに視線を戻した男性はパレットに出した絵の具を筆につけた。
「これでも綺麗だ、などと言えるか?」
男性は思い切りよく筆についた黒の絵の具をキャンバスにぶちまけ、パレットと筆を投げ捨てて両手で絵の具を伸ばし始めた。
迷いのない手の動きで朝空の絵が変化していく。
両手を汚して完成したのは夜空の絵だった。
ヘカテリーナは絵のほとんどが黒色で塗りつぶされるのかと思ったが、実際には絶妙なコントラストで真夜中の空を表現している。
太陽だったものが満月に変わっていることに感激して声を荒げた。
「すごい! そんな描き方も、絵も初めて見たわ! 朝空を夜空に変えてしまうなんて、あなたは天才ね!」
「お前は馬鹿か? 綺麗ものは汚すことができても反対はできない。この絵の鮮やかさを取り戻すことは不可能なんだぞ」
「そのままでいいじゃない。ずっとキラキラしているときっと疲れてしまうわ」
男性は帽子の下に隠した目を見開き、初めてヘカテリーナの顔を見た。
お世辞にも艶やかとはいえない黒髪に、ほつれたドレス。庶民の子供と言われても不思議ではなかった。
「世の中は綺麗なものばかりではない。それを皆は知らないのだ」
「……そうね」
なんとなくヘカテリーナには彼の言っていることが分かるような気がした。
貴族が集まる社交界はキラキラして見えるが、その裏でヘカテリーナは陰口を叩かれ、馬鹿にされ、憐れまれている。
そんな境遇だからこそ、汚そうとしても神秘的な雰囲気を演出できる彼の才能を羨ましく思った。
「お名前を教えて下さい。もっとあなたの絵を見せてほしいの」
「パンチュールだ」
迷いなく答えられた名前に、ヘカテリーナはむっとした。
パンチュールとは絵画のことだ。彼は真面目に答える気がなく、偽名を使ったのは明白だった。
「お前は?」
ヘカテリーナも負けじと即答する。
「バロンよ」
男爵家の娘だからというわけではなく、普段から男の格好をしているヘカテリーナは自虐の意味を込めてそう答えた。
◇◆◇◆◇◆
ヘカテリーナが新規の依頼主からの呼び出しに応じると、数人の付き人を従えた馬車が停車していた。
馬車から人が乗りてくる気配はない。
静かに馬車へ近づく。付き人が道を開けて馬車の窓に案内された。
「マシャル公爵夫人!?」
窓から顔を覗かせたのは、ヘカテリーナにダンスの技術を仕込んだ張本人だった。
「久しいわね」
「マシャル様だったとは。ど、どのようなご依頼でしょう」
「簡単なことよ。ダンスの相手をして欲しいの」
「しかし、旦那様がいらっしゃいます」
マシャルは一年前に結婚している。彼女の夫は王国騎士団の団長を務める屈強な男性だったと記憶している。
「あの人、遠征で家を空けるの。ちょうどパーティーの時期と重なってしまって、主催者がわたくし一人では味気ないでしょう?」
「そういうことであれば……」
マシャル公爵夫人にダンスを仕込まれたのは事実だが、彼女とごっこ遊びに興じたことはない。
彼女はいつもヘカテリーナの演技を満足げに眺めているだけだった。
「随分と慣れてきたようね。依頼が殺到しているとか」
「はい。マシャル様のおかげです。社交界での居場所を与えてくださり、ありがとうございました。感謝してもしきれません」
ヘカテリーナを下位貴族の娘だと馬鹿にする者たちを一蹴したのがマシャルだ。
彼女は誰よりも先にヘカテリーナの素材に気づいて、男装するように命じた。
教育の行き届いていないヘカテリーナに学習の機会を与えたのも彼女だった。だからこそ、ヘカテリーナはマシャルの頼みは絶対に断れない。
ヘカテリーナは本番目前になると眠れない夜を過ごすことが度々あったが、依頼をこなすようになって緊張しないようになった。
しかし、今回はいつになっても寝つけないほどだった。
「まったく、あなたという子は」
呆れた声で目を覚ましたヘカテリーナは急いで支度をした。
母には「公爵家のパーティーに招待されたのに呑気な子ねぇ」と言われ、父には「コネを作ってこい」とウキウキしながら背中を押された。
なんとか遅刻することなく、公爵家に到着したヘカテリーナはマシャルが用意した騎士装束に着替えて、髪のセットを終えた。
鏡に映っているのは芋臭い男爵令嬢ではなく、凛々しく涼しげな麗人だった。
パーティー会場の扉が開き、ヘカテリーナが経験した中でも最大級のパーティーが始まった。
(この雰囲気でマシャル様と踊るなんて)
出番が近づき、パーティーホールの裏手に待機して深呼吸する。
気合いを入れて出ていこうとした時、より一層激しい拍手が鳴り、思わず引き返してしまった。
これまでに何度も男装をしてパーティーに参加してきたが、こんなにも黄色い声を浴びたことはない。
まるで王族でも来ているようだ。
そんな感想を抱きながら、顔を覗かせるとヘカテリーナの視線の先には本物のリヒド王太子がいた。
艶のある金髪と王妃によく似た美貌。ほどよく引き締まった体。誰もが足を止めて見入ってしまう容姿をしている。
王太子が公爵家のパーティーに参加するなど異例のことだ。
ヘカテリーナの後ろでは公爵家に仕える者たちが「ついに自分で嫁探しを始めたか」などとヒソヒソ話していた。
(うそでしょ!? 落ち着くのよ、ヘカテリーナ。今日は『婚約破棄ごっこ』じゃない。ただ、ダンスするだけ。いつも通りにやればいいの)
はやくなる呼吸を必死に抑え込み、額の汗を拭う。
「出番です。お早く」
しびれを切らしたマシャルの合図を受けた執事がヘカテリーナに声をかける。
ヘカテリーナは覚悟を決めて裏手からパーティー会場に乗り込んだ。
案の定、王太子の後ではパラパラとした拍手しか起こらない。
むしろ「誰だ?」といった声があちこちで聞こえた。
「マシャル様。私と一曲踊ってはいただけませんでしょうか」
片膝をつき、マシャルに手を伸ばす。
視線も首の角度も声の低さも、かつてマシャルに言われた通りにした。
しかし、ヘカテリーナの手にマシャルの手が重ねられることはなかった。
「あら、困りましたわ。わたくしには夫がいますのに」
一度伸ばした手を自分の頬に添えたマシャルは唇を尖らせながら眉をひそめた。
「マシャル様!? 話が違います!」
「ですから、わたくしには一生添い遂げると心に決めたお方がいるのです。分かってください」
あの騎士装束の男は夫のいる公爵夫人を我が物にしようとして拒絶されたのだ、と貴族たちは沈黙するヘカテリーナを見て誤解した。
「ちがっ! わたしは!」
「貴様が俺の妻に手を出そうとした男か」
扉を蹴破る勢いでパーティー会場に入ってきた大男。彼こそ、マシャルの夫であるバトレー公爵だった。
(はぁ!? 閣下は遠征で屋敷にはいないって話じゃないの!?)
混乱を極めるヘカテリーナは揺れる視線の先で、いやらしく唇を吊り上げるマシャルの顔を見た。
その瞬間、以前の依頼主に「不貞のだしに使われないように」と忠告されたことを思い出した。
マシャルの不貞を隠蔽するために利用されたことを認めたくない気持ちと、迫り来るバトレー公爵への恐怖感と、周囲から向けられる視線でヘカテリーナは腰を抜かした。
(誰か、助けて……)
足に力が入らず、声を上げることもできない。
振り上げられたバトレーの腕が鞭のようにしなり、頭を庇ったヘカテリーナの左腕をはたき落とした。
「なんたる軟弱! そんな細腕で俺から嫁を奪おうとしたのか!」
体が硬直し、恐怖と痛みで涙がこぼれ落ちそうになる。
今日ほど男装していることを悔いたことはなかった。
今すぐに男装を解いて弁明するしかない。そうすればマシャル様も一緒に釈明してくれるはずだ。
しかし、へカテリーナの願いとは裏腹にマシャルはすでにバトレーの背中に隠れて、薄ら笑っていた。
この場にヘカテリーナの味方は一人もいない。
弁明しても男爵令嬢の言うことなんて誰も聞いてくれないだろう。
ヘカテリーナは絶望して俯いた。
「その辺にしておけ、バトレー将軍。せっかくのパーティー会場がめちゃくちゃになる」
「はっ! リヒド王太子殿下! 失礼いたしました!」
敬礼するバトレーの隣を通り過ぎたリヒド王太子がヘカテリーナの肩に手を置いた。
「貴様は何者だ? 巷で流行りの『婚約破棄ごっこ』の男か? それなら、そうと言った方がいい。このままでは殺されるぞ」
死の文字が頭をよぎる。
奥歯がガチガチと音を立てて震え、余計に声が出せなくなった。
「…………」
リヒド王太子の冷たい眼差しがヘカテリーナを捉えて離さない。
このまま牢屋に入れられたらどうしよう。
ヘカテリーナは不安で何も考えられなかった。
「この男の身柄は私が預かる。バトレー、貴様は自分の妻とよく話し合うことだ。これがただの余興なのか、それとも別の意味があったのか。いいな?」
「はっ!」
リヒド王太子は震えるヘカテリーナの腕に手を滑らせ、力を込めて無理矢理に立たせた。
ぎこちなく歩くヘカテリーナを連れて、パーティーホールをあとにする。
(逃げないと。お願い、言うことを聞いてっ!)
決死の思いで踏み出した足に力を込めたヘカテリーナは転けそうになりながらも、リヒド王太子の腕から逃れ、必死に走った。
町を歩く人たちを押し退けながら走る。
誰かに文句を言われても気にせずに、ただ前だけを見て走った。
少しでも公爵家から離れて、どこかで馬車を拾おうと必死だった。
その頃には左腕の痛みはすっかり忘れていた。
途中、借り物の騎士服を脱ぎ捨て、軽装で辻馬車を拾った。
ヘカテリーナはリヒド王太子とバトレー将軍の影に怯えながら、帰宅まで最悪の時間を過ごした。
「おかえり、ヘカテリーナ! 公爵家のパーティーはどうだった!? なんだ、その格好は……」
「何があったの!? まさか、野盗に襲われたんじゃ」
「そんなんじゃない。放っておいて」
下位貴族だったとしても、令嬢として恥ずかしくないように自分を育ててくれたマシャルに裏切られた。
心に深い傷を負ったヘカテリーナは一週間もの間、部屋に引きこもった。
信じていた人に裏切られる辛さは簡単には拭い去れない。
それでも、このままではダメだと奮起して憩いの場である橋の下へと出かけた。
ダンスの練習をする気にはなれなかったが、ズボンではなくドレスを着て、流れていく雲を見上げながら歩いた。
左腕に巻いた包帯は巻き直したばかりだというのに、風に煽られて解けそうになっている。
橋の下に座り、何も考えないように目を閉じた。
「おい。起きろ、バロン」
「んっ」
いつの間にか眠ってしまっていたヘカテリーナがまぶたを開けると、目の前にはあの絵描きの男性が立っていた。
知り合って間もない男性に寝顔を見られた。
よだれなんて垂れていないよね!?
焦ったヘカテリーナが左手で口元を拭おうとしたとき、鋭い痛みが突き抜けた。
「っ!」
「……その腕」
異変に気づいた男性が手を伸ばす。ヘカテリーナは左手を背の後ろに隠して、右手で口元を拭った。
「なんでもない」
「痛むなら見せろ。小川で冷やすといい」
「やめて」
断固として拒否するヘカテリーナを放っておかない彼の態度に苛立ちが募る。
(この前まで素っ気なかったくせに)
ヘカテリーナのイライラは限界を迎えようとしていた。
「二つ聞くが、先週の夜に公爵家に行っていないか? 『婚約破棄ごっこ』という単語に聞き覚えは?」
ドキッと心臓が跳ねた。
なぜ、ただの絵描きがそんなことを聞くのか。
なぜ、貴族でもなさそうな男が『婚約破棄ごっこ』を知っているのか。
ヘカテリーナの頭は嫌な考えばかりでいっぱいだった。
「知らない! わたしには関係ない! その話をしないで!」
もしも、この男が自分の肖像画を描いて、町中にばら撒いたとしたら……?
そんな被害妄想に取り憑かれたヘカテリーナは彼の腕を振りほどき、涙を流しながら怒鳴りつけた。
「わたしを見ないで!」
ヘカテリーナに押されてバランスを崩した彼の手元からスケッチブックが落ちてページが開いた。
「あっ」
二人が同時にスケッチブックに目を落としたとき、風が吹いてページが次々にめくれる。
空や山や川の絵がパラパラと流れ、一人の女性が空を見上げる絵のページが開いた。
「わたし……? やっぱり、わたしを晒し者にする気なのね!」
「違う! これはっ!」
弁解の隙を与えないヘカテリーナはスケッチブックを拾い上げて、肖像画のページを破り捨てた。
「なにをする!」
「それはこっちのセリフよ! 勝手に人の似顔絵を描いておいて、被害者面しないで!」
まだ隠し持っているかもしれない。
狂気じみた顔でスケッチブックをめくるヘカテリーナは最後のページで手を止めた。
「それは見るな!」
ヘカテリーナの手からスケッチブックが取り上げられる。
ハンチング帽によって顔は見えなかったが、いつも素っ気ない彼からは考えられないくらい焦った声だった。
最後にヘカテリーナが見たものは、細部まで描かれたウエディングドレスだった。
◇◆◇◆◇◆
ヘカテリーナが依頼を受けなくなって早くも一ヶ月。
町では『婚約破棄ごっこ』の男を探す若い女性たちが散見していたが、その事実をヘカテリーナが知る由もない。
ある日、父が大慌てでヘカテリーナの部屋に入ってきた。
「なんですか?」
「た、大変なんだ。お、お、お前に招待状が! 王宮で開かれるパーティーに出席するように、と王命だ」
ついに国王にまで知られたのか。ヘカテリーナは観念した。
書状が届くということは、ヘカテリーナの正体も家の場所も全て把握されているということだ。
このまま雲隠れして、実家に乗り込まれるくらいなら自ら出向いて首を差し出した方が賢明だ。
ヘカテリーナは涙を溜めながら両親に最後の別れを告げた。
「今日まで育てていただき、ありがとうございました。不出来な娘でごめんなさい」
「何を言う。お前は立派な娘だ。胸を張って行ってきなさい」
「そうよ。堂々としなさい」
これまで『婚約破棄ごっこ』で誰かを不幸にしたことはない。
両親の言うように胸を張って処罰を受け入れよう。
黒髪をいつもよりきつめに縛ったヘカテリーナは馬車に乗り込み、王都へと向かった。
初めての王宮は、これまでに訪れた上位貴族たちのお屋敷よりも立派で言葉を失った。
キョロキョロと辺りを見回すヘカテリーナに対しても丁寧に腰を折った王宮仕えの侍女に見惚れてしまう。
ヘカテリーナは母から託されたパーティー用のドレスを持ってきたが、それに袖を通すことはなかった。
「お待ちしておりました。こちらにお進みください」
侍女に連れられて一室に入ると、問答無用で着ていた服を脱がされ、湯浴みさせられた。
(体を清めてからではないと無礼だものね。わたし、臭かったのかな)
ヘカテリーナの意志は無視して全身をくまなく洗われる。
「合図するまで決して目を開けてはいけません。よろしいですね」
無言で頷く。
されるがままのヘカテリーナは着替え、メイク、ヘアセットが終わるまで言いつけを守り続けた。
いくらコルセットをきつく締めつけられようとも、まぶただけは開けなかった。
侍女に手を引かれて、どこかへと向かう。
視覚を奪われているからか、聴覚が鋭くなり、自分が進む方向から大勢の声が聞こえてくることに気づいた。
(こんなに大観衆の前で断罪されるのね)
まぶたと唇をきつく結んだヘカテリーナが入場すると賑やかだったホールが静寂に包まれた。
「リヒド王太子よ」
女性のヒソヒソと話す声が聞こえる。
ヘカテリーナは、いつ跪かされるのかと怯えながら一歩ずつ進んだ。
「ここに集められた者たちには共通点がある」
よく通る王太子の言葉は、ホールの隅に身を潜めている者たちを含め、全ての女性の肩を震わせた。
彼女たちと腕を組んでいる男性の中にも身に覚えのある者がいたようで、緊張で体がこわばっている。
「そうだ。『婚約破棄ごっこ』の男を利用した者たちだ」
ヘカテリーナも例外なく鼓動が速くなる。
遂にその時がきたのだ、と真っ赤なルージュをひいた唇を噛み締めた。
「誰が始めたのか知らんが、これ以上ことが大きくなるのは困る。それに渦中の男は先日のパーティーで傷を負って療養している。そうだろう、バトレー将軍」
「はっ! その通りでございます」
「貴様が探していた間男は見つけ出した。マシャル公爵夫人は『婚約破棄ごっこ』の男とは関係を持っていない」
「さ、左様でごさいますか!?」
動揺を隠せない声のバトレー公爵に睨まれたマシャルは「ひっ」と喉を鳴らした。
「さて、ここにいる68組の夫婦には『婚約破棄ごっこ』に関する記憶を忘れてもらい、二度とその名を口にしないことを誓ってもらう」
ざわめくホール内に立たされているヘカテリーナは何が起こっているのか分からなかった。
怖いもの見たさで目を開けようにも、体が言う事を聞いてくれなかった。
「そして、もう一つ。皆に紹介したい人がいる」
足音が近づき、懐かしいパンの香りが鼻孔をくすぐった。
「目を開けろ、バロン」
「えっ!?」
ただ一人にしか語ったことのない偽名を耳元で囁かれ、驚くほどにすんなりとまぶたが持ち上がった。
シャンデリアの光が眩しくて、一瞬視界が真っ白に染まる。視界が晴れるとヘカテリーナは壇上から見知った顔の夫婦たちを見下ろしていた。
「う、美しい」
「どこのご令嬢かしら」
「うそ!? ヘカテリーナ……?」
ヘカテリーナは自分の目と耳を疑った。
誰もがキラキラした瞳で自分を見上げていたのだ。
これまで自分が貴族令嬢や婦人に向けていた視線を向けられていることに驚きを隠せなかった。
ぎこちなく胸へ視線を落とす。
彼女はずっと憧れていたブルーの豪奢なドレスに身を包んでいた。
「こ、これは!? それに、リヒド王太子がなぜその名を!?」
「今日で『婚約破棄ごっこ』も、私の嫁探しも終わりだ」
絢爛豪華なドレス姿で棒立ちするヘカテリーナの手を取ったリヒド王太子は、初めて彼女の前で笑った顔を見せた。
「ヘカテリーナ嬢、私と結婚して欲しい」
腰が抜けそうになりながらも、絞り出した声はなんとも情けないものだった。
なぜ、王太子がわたしのことを知っていて、しかも求婚してくるのだろう。
ついさっきまでヘカテリーナの頭の中は断罪されることでいっぱいだった。急展開についていけなくても不思議ではない。
手を握り返すことも、返事をすることもできないヘカテリーナに微笑みかけるリヒド王太子が両手で彼女の手を包み込む。
「私の絵を見て、美しいと言ってくれた君が傷つく姿を二度と見たくない。私にヘカテリーナ嬢を守らせてはくれないだろうか」
「えっと、あの、突然のことで頭の中がぐちゃぐちゃで……。今日も男装させられているのだとばかり」
「それは無理もないだろう。すまないが、二度と男装させるつもりはない。私が君の居場所となろう」
社交界での居場所を求めて男装したヘカテリーナが本当に欲しかった言葉をくれた。
瞳が潤み、リヒド王太子の顔がよく見えなかった。
「これを」
涙を拭うと、リヒド王太子は懐から取り出した破れた紙切れと、折り畳まれた紙を取り出した。
「会えない間に君を想って描いたものだ。悪用するつもりはなかった。すまない」
それはヘカテリーナが破り捨てたデッサンだった。
「そんな、わたし……何も知らなくて。申し訳ありません」
「いいんだ。私が口下手すぎた。だから、しっかりと気持ちを伝えたい」
リヒド王太子は折り畳んだ紙を広げて、ヘカテリーナに渡す。
「私がデザインしたウエディングドレスを着てくれないだろうか。このドレスが似合うのは君しかいない」
あの時、この絵を破らなくてよかった、と心から安堵したヘカテリーナはウエディングドレスの描かれた紙を抱きしめて、しっかりと頷いた。
◇◆◇◆◇◆
こうして王太子の婚約者お披露目パーティーは幕を下ろした。
顔を真っ赤にしたバトレー公爵は妻であるマシャルと間男を連れて、早々にホールを出て行ってしまった。
「この度はおめでとうございます。ヘカテリーナ様」
「あなたはこの前の!?」
ヘカテリーナの元へ挨拶に来たのは『婚約破棄ごっこ』を依頼された時に、王太子の雑談話を持ちかけた貴族令嬢だった。
「ご忠告したのに、まんまと嵌められてしまいましたわね」
あらら、と言った風に笑う彼女はリヒド王太子に向かって凛々しい顔で敬礼する。
何がどうなっているのか分からないヘカテリーナは、ただ二人の顔を交互に見るしかなかった。
「彼女は私の親衛隊の一人だ。秘密裏に『婚約破棄ごっこ』の男を探らせていた」
「マシャル夫人がよからぬことを企んでいるのは前々から察していましたからね。まさか、私の妄想が実現するとは驚きです」
「その話は終わりだ。ヘカテリーナ嬢、ご実家まで送ろう。後日、正式に婚約と結婚の申し込みを行う」
「はい」
改めてそう言われると、今更ながらに感動が込み上げてきた。
怒涛の展開についていくだけで精一杯だった先程とは違って、満面の笑みでリヒド王太子を見上げて返事をするヘカテリーナに彼は頬を染めた。
後日、本当に男爵家に出向いたリヒド王太子は正式に婚約を成立させて、ヘカテリーナは王都へと住まいを移した。
「綺麗なものを汚すことはできても、逆は難しいのではないのですか?」
「何を言う。ヘカテリーナは十二分に綺麗だ」
「では、汚されてしまうのですね」
「それはっ。……そうではないと約束はできそうにない」
「リヒド様の絵を初めて見たときから心は決まっていましたよ」
リヒド王太子との婚約以降、ヘカテリーナが男装することはなく、『婚約破棄ごっこ』という遊びはこの世界から無くなった。
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