遮光された電話口
放置しておりましたが再開して参ります。
時系列は少し遡る。主犯格である金本の要求が明確な以上、経営陣が採れる選択肢は1つだけだ。それ以外に手を伸ばせばどうなるかなど火を見るより明らかなのは間違いない。
汚名は会社全体に波及し業界そのものへもダメージを与える。自分がそこの社員であるだけで世間に顔向け出来なくなる未来を誰が望むだろうか。
総合指令所の大迫指令長、坂崎副指令長も当然だが上の決断は1つしかないと思っていた。何れにしろ件の260号車は乗務員によって動き続けている。都合の悪い事に諸般の事情で交代要員が全く確保出来ず、中野で最初に乗り込んだ松本駅長ともう1人の運転士、最初から乗っていた赤澤も未だ降りられない関係で渦中にあるままだった。
これで車内に居るのが犯行グループだけならば多少は強引な手段も選べるだろうが、現段階では金本の案を受け入れるしかない。
しかし大迫と坂崎の思案に反して上からの返答は何も無かった。それ所か具体的な現状の説明すら無い。まるで現場を締め出しているかのようなこの振舞い。何を考えているのか理解が出来ないまま、息苦しい時間だけが流れていく。
「回線が不通って訳じゃないんだな」
「秘書室が毎回出てはいるんですが、会議が終わり次第伝えるの繰り返しで」
「乗員と乗客の命を他の何かと天秤に掛けてるのか。最悪は沿線の建物だって巻き込むかも知れないのに……」
大迫は俄かに感じた胃痛を鎮めようと腹部に手を当てる。シクシクと嫌な痛みだ。朝より酷くなっている気がするもそんな事を言っていられる場合ではない。しかし額には薄っすらと脂汗も滲み出していた。ハンカチで素早く拭き取り、体調の変化を悟られないように振舞う。
「連絡したのは何分前だ」
「15分ほど前です」
「今から15分後にまたやって見てくれ。とにかくこのまま走らせ続けたって何も解決しない」
「はい」
指令長の席から立ち上がり、常駐している特殊犯の刑事に一言伝えてフロアの外に出た。自販機とウォーターサーバーがある一角に辿り着くとそこで温かいお茶をコップに注ぎゆっくり飲み下す。じんわり胃に広がる温かさで痛みが幾分和らいだ。
深呼吸を繰り返して精神を落ち着ける。しかしどうだ。指令所の扉が近付くと共に痛みはまた顔を覗かせ始めた。だがこの件が収束するまで指令長の座から降りる訳にはいかない。今ここで辞表を叩き付けても受理されるとは思えなかった。ならば腰の重い上をどうにか動かし、事態を先に進める方法を考えなければならないが、ここまで動きがない理由も気になった。
(どうするつもりだ……)
上は何を気にしているのか。確かに気にしなければいけない事は多い。寧ろ多過ぎる。だからと言って思考を放棄していい訳ではない。今日は本社で定例の役員会が行われていた筈だ。経営陣が雁首揃えて何も決まらないなんて事があるのだろうか。
取りあえずこの区画に居ても事態は動かない。自分だって当事者の1人なのだ。重い足取りのまま指令室へ向けて歩き出す。
フロアへ入って席に戻り、もう何度目かも分からない深呼吸をする。上からの指示が無い影響で今以上の下手な命令は出来ない。足踏み状態だ。もっと言うなら"停止"か。足踏みすらままならない感じがあった、
その後も事態は全く動きを見せないまま時間だけが経った。腕時計を確認した坂崎副指令が受話器を持ち上げて再度連絡を試みる。
「指令所の坂崎です。社長たちは……」
そこから会話は続かなかった。坂崎が受話器の口元を押さえて大迫を見やり、首を横に振る。
「貸してくれ」
副指令がダメなら指令長の自分が出れば少しは対応が変わって来る筈。そんな思いで坂崎から受話器を受け取った。
「総合指令長の大迫です。是非とも社長……いえ、重役であればどなたでもいいのでお願い出来ませんか」
「社長たちはまだ会議の最中です。終わり次第、連絡があった事はお伝えしておきますので」
「簡単な指示の1つぐらい出せると思いませんか。こっちは乗員乗客の命を預かってるんです。せめて方針か何か」
「終わり次第でお伝えします。今はそうとしか申せません」
「また掛けます」
切られるよりも前に切った。ちょっとは現場の苛立ちが向こうに伝わった事を願うが、現段階を考えるとこの程度で上が動くとも思えなかった。
沸々と湧いて来る怒りを震えるような深呼吸で宥めつつ指令長の席に戻る。そうするとまた"あの痛み"が顔を覗かせ始めた。事態が動かないのならと心を切り替えた結果、全く関係の無い事を考えると少しずつ痛みが引いていく。これを利用して完全に痛みが消えるまで目の前の状況から意識を遠ざけた。
学生時代の記憶まで遡った所で痛みが完全に無くなったのを認識すると、ここでまた心を切り替えた。しかし急にあれこれ考え出すとまた痛みがやって来そうなので遠い位置から物事を考え始める。
まず上層部の動きが悪い理由が気になった。ポストイットを1枚千切ってボールペンを走らせ、頭の中に浮かんで来る単語を片っ端から書き連ねる。正解など分からないが近い場所まではいけるかも知れない。上が考える事も少しは分かるだろうか。
売上。イメージダウン。利用客の拡散。営業停止。株価。子会社倒産。などの単語が連なる。ほぼ全部が気にするべき事のように思えた。
と、ここで1つ、思い付く事を後悔する単語が浮かんで来た。こんな物を気にしていて仕事が出来るのか。この事態に対処出来るのか。そう思いながら右手が綴った文字は"面子"だった。
株式会社の体裁を採った企業ではあるが、株主の件を含むと国営企業みたいなものだ。倒産はあり得ない。民営化や統廃合で事業停止とするケースも存在するがこの規模で運営されているものがそうなるだろうか。可能性としては紆余曲折を経て都営化の道がゼロではないかも知れない。となれば今の経営陣は一新されるが本末転倒甚だしい。そもそもこっちが営団地下鉄の後身として生まれた存在であって都営地下鉄は枝分かれした先。今さらそこに名を連ねるのは容認出来ない事だ。
大迫の脳がその考えを何故か深く理解した。もしや上はこれを気にしているのか。様々な行政処分の果てに都営地下鉄へ吸収されてしまう末路を恐れている可能性はある。
いや、現状においては上に折れて貰わないと話が進まない。爆発する最後を迎えてしまえばそっちの結末へ転ぶルートも自ずと見えて来るのだ。
金本の真意が何所にあるのか大迫には分からなかったが、金本の案を受け入れてしまう=自分たちの運営体制は間違っていないとする認識の否定=テロリストに負けた、との着地点。それと、金本を突っぱねて断固とする態度を見せる=爆破が実行され多数の死傷者と沿線への被害=自分たちの認識は貫き通したが結局死者を出した=テロリストに負けた、とするもう1つの着地点。どっちが正しいか。大迫は決定出来る立場には無いが上にとってはどう選ぼうと負けへ転ぶから一歩を踏み出せないでいる。そんな結論が自分の中で顔を見せ始めた。
どうあっても死人が出るのは容認出来ない。それこそ一番避けなければならない事だ。自分たちの考えを貫きたい等と言った下らない矜持のために意地を張って会社全体を危機に陥れる行為を平然とするならばこっちにだって考えがある。
「副指令長、電話を」
「催促ですね」
「いや、自分で掛けて見る。上の人間が誰も出ないのなら秘書室に伝言させる。今日のスケジュールが全部狂ったのは間違いないしキャンセル関係の連絡も終わってどうせ暇だろう」
坂崎は何か言いたげだったが手近な電話を手繰り寄せて静かに大迫の横へ置いた。本社の代表番号に掛けると10秒ぐらいでまた秘書室が出る。
「大迫です」
「まだ会議が」
「でしたら伝言をお願いします。本件に関する現場としての行動方針を指示願うと」
「それを決めようとする会議をしておりまして」
「中野駅でトレインジャックが宣言されて、午後からの公開捜査に移行して何時間経ちました。警察は確かにサポートしてくれていて有難いですけどそれだけじゃこっちは成り立たないんです。どうするんですか。このまま走らせ続けるんですか。人質は。車両は。高架橋は。全部を時間切れまで放っておくんですか。ご返答お待ちしておりますとお伝え下さい」
「警察の許可がなければこちらも入る事が」
「では早急に許可を取って下さい。緊急の件と言えば通してくれるでしょう。何でしたらこちらに居る刑事の方にも協力して頂く事だって出来ると思いませんか。そちらに居る方々と連絡を取って貰って、緊急の件だからと伝えて誰か1人ぐらい引っ張り出すのは不可能ではない筈です」
そこまで言うと、秘書室の人間は黙ってしまった。まさかとは思うが上は現場を締め出して自分たちだけが何とか生き残る方法を模索しているのだろうか。
有り得ない話ではない。ここで全社員と関連会社を全て見捨て、犠牲者とその遺族に一定の金額を支払う事になってもあらゆる手段を尽くして会社の金で済ませるだろう。個人の金を出そうなんて考えがあるとは思えない。全部片付いたら早々に隠居して介護施設で余生を過ごせるだけの資産は潤沢に持っている筈。出元が汚かろうか綺麗だろうが手放す訳はないし、今時は現金以外だって価値のある物は豊富だ。搔き集めれば必要十分以上の額になるのは確かである。
しかし何だって秘書室の連中は意固地になるのだろうか。外線ならともかく同じ社員からの、それも今まさに不本意ながら矢面に立たされている人間の電話をシャットアウトしてどうしようと言うのか。
「……もしかしてですが、裁量権を奪われましたか」
「いえそんな事は」
「身内からの電話すら跳ね除けてまで上の命令を徹底するのは殆どそう言えます。仮に今、何所かで脱線か衝突が起きたとの連絡でも取り次がないつもりですか」
返事は帰って来なかった。どうやら秘書室は考える権利を握られてしまったらしい。上はこれで余計な情報を聞かずに済む。目の前の、自分たちに突き付けられた要求に対する答えだけを考えればいい空間を作り出したのだ。
そうしたくなる気持ちも分からないではないが、だったら早く金本の要求する案を組み込んだ改善策を練り上げて形にして欲しい。何も難しい事はない。
だがこの数時間の間、上は本当に改善策を考えているのだろうか。さっき自分がポストイットに書き連ねたあの単語たちが脳内を駆け巡る。互いに電話口に立ったまま無言では埒が明かない。
「因みに本部長も中に居られますか」
「…………織笠本部長は別の場所に」
「承知しました。こちらで本部長と連絡を取ります」
何か言いたげな上擦った声が一瞬だけ聞こえたがそれに構う事なく受話器を置いた。社用携帯を取り出し鉄道本部長こと織笠保の番号を探す。裁量権を握られたとしてもウソは言わないだろうが、もし本部長が部屋の中に閉じ籠ったままなら連れ出すいい理由になる。
織笠の番号を見つけて通話を試みた。10コール目で雑音が入り、何かを争うでもないがやり取りする声が聞こえ、その後はクリアになった。
「もしもし、もしもし」
「聞こえます。今はどちらに」
「大会議室で各部署と急ぎの会合中だ。指令センターで何か問題は」
「上から何も具体的な指示が下りて来ていません。それと、交替の運転士がーー」
実を言うと運転士の交替要員が確保出来ないのは理由があった。その多くはこの事態の中で運転しろ等と正気の沙汰とは思えない業務命令は労働契約法に抵触するのでは、と結託して首を縦に振ろうとしなかったのだ。人質の安全を確保し周辺へ与える被害を可能な限り抑えるために必要だと説得しても「結局死んだらそこまでだ」と譲らない。気持ちは十分に分かるが無理やりにでも260号車を動かし続けないといけない理由があるため大迫としてもこの件は何とかしないといけない項目だった。
であれば社長なりに"せめて一言でも何か言葉を"と半ば期待している部分もある。だからこそ直接、重役の誰かに連絡を取って具体的な指示方針を受け取ると同時にその件も伝えればと考えていた。と織笠に、言葉を選んで説明する。
「運転士か……分かった、少し手を回して見る。方針については警察からもう直ぐ通達がある筈だ。最終的な局面に向けての舵取りは警察にバトンが渡っている。とにかく260号車が停められない事だけは明確に意識して貰いたい。それから、社長たちは今、最重要課題の意思決定を行うために閉じ籠っている。何かあればこっちに直接連絡して欲しい」
「最重要課題ですか」
「内容は聞かされていないが社長たちはその課題を決めるため、金本の意見を盛り込んだ改善策の立案を我々に託した。責任は重大だがここを切り抜ければ何か見えて来ると信じるしかない」
「ちょっと待って下さい。秘書室の人間は社長たちが全体の方針を決めるための会議をしていると言っていましたけど、改善策を作るのも含まれているんじゃないんですか」
「機密保持の観点から秘書室は情報漏洩を防ぐため詳細が報されていない。外線でうっかり口を滑らせないための保険だ。やり取りしていて不快に思った部分もあるだろうが分かってやって欲しい」
不思議と心拍数の増加を感じた。何だこれは。バトンが既に警察へ渡っていて、社長たちは改善策の立案を織笠本部長を含めた経営陣ではない人間に託し、よく分からない最重要課題の意思決定を行うため秘書室に口止めしたまま閉じ籠っていると言うのか。
会社とは。企業とは。都市インフラの基盤たる鉄道の1つを支えているこの会社は、重要な部分を丸投げして密室で全てを片付けてしまうつもりなのか。
気が遠くなると同時に急な眩暈を覚えた大迫は、自身の頭から地面までを貫く軸が、腹を中心に右側へ回転するような感覚に襲われた。足元がグラついたと思った次の瞬間には膝から崩れ落ちていた。坂崎の呼び掛ける声がとても遠い所からのように聞こえる。
その後、大迫は医務室で意識を取り戻した。妙な心労を掛けさせてしまった事で調整チームの須貝警部補は成川課長に許可を取った上で作戦の詳細を説明。
一応納得はするも、それで言いくるめられてしまった経営陣に対して大迫は更なる不信感を募らせるのだった。
次回更新は来月になります。
11月中で完結の見通しです。




