冷えぬ肝
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
う〜、12月に入ってから、どうも身体の調子が悪いねえ。寒くなってきたからかなあ?
こーちゃんも見た感じ、だいぶきついと見えるよ。もうすぐ年末だし、お互い身体に気をつけながら、もうちょい踏ん張らないとね。
だが困ったことに、ひと口に体調不良といってもその種類は様々だ。身体の扱いに関しても、絶対安静から適度な運動まで、ケガや症状によって千差万別になる。中には流行り病のように、なること自体が致命的な病気も存在するのは、知っての通りだ。
おっと、気にしていたら僕もなんだかめまいがしてきたなあ……ちょっとどこかの店に入ろうか? ちまちまコーヒーでもすすっていれば、そのうち良くなるだろう。
その間に、体調不良をめぐる話、ちょっと聞いてみないかい?
僕の父もご多分に漏れず、雷鳴が天に鳴り響く時、「雷さまにおへそを取られる」と話をされて育った。最初のうちこそビビっていた父だったけど、雷を聞く回数が増えるたび、どんどん疑いの色が心の中を染めていく。実際におへそを取られないじゃないか、とね。
父は母親である祖母に、どうしてこのような言い回しをするのか尋ねてみたことがあったらしい。祖母は少し考え込んだ後、「あんた、お腹を壊したことあったっけ?」と、逆に訊き返してきたんだ。
父のお腹は丈夫だった。熱いものと冷たいものをほぼ同時に食べても、お腹を壊したことがない。それどころか、かき氷などの冷たいものを一気食べしても、鼻や頭が痛くなる、いわゆる「アイスクリーム頭痛」とやらには出会ったことがなかった。
それが雷とどう関係があるのか。父の二度目の質問に、祖母はこう答えたんだ。
「雷さまにおへそを取られるっていうのはね、人間にとっての腹痛を表すんだ。空がかげって雨が降り始めると、空気が冷え始める。このような時に、へそが見えるほどお腹を出しっぱなしにしていると、お腹が痛くなっちまう。それがこの言い伝えのいわれなんだとか。
特に問題は眠っている間だ。寝相は、本人が知ることのできるものじゃない。意識がないままに、身体のあちこちをかいて回るのは珍しくなく、お腹の辺りに手が突っ込めば、それによってできたすき間が冷気を導く穴となる。
結果、起きる頃にはお腹が冷え切ってしまい、痛みに悩まされる。ちょうど雷の音で目が覚めた人が、お腹の不調を感じて、『おへそを取られた』と判断したんだろう。だが……」
祖母はそっと父のお腹を服越しになでる。昼ご飯をたらふく食べて間もない腹の皮は、軽く張っている。
「これまで一度もお腹の調子を壊さない、というのは珍しいね。早いうちに経験しておいた方がいいかもしれないよ。そうすりゃ少なくとも、『特別なもの』じゃなくなる。大勢に埋もれちまえば、変なものの目に留まることがなくなる」
表向き、神妙に聞きながら、後半部分について父は噴飯ものだったという。
クラスのみんなが経験している腹痛に対し、未経験である。このことは父にとって、とても嬉しく思うことだった。
これが、流行りについていくことができないとかだと悲惨だが、病気などのマイナスなことに関しては、むしろ栄誉のようなもの。まだまだ特別に憧れたい父にとって、自分のアドバンテージを捨てるなどあり得ない。
――雷さまだから何だってんだ。俺は絶対に腹を壊さないぜ。
そう気張る父だったけど、腹をいたわるつもりは毛頭なかったとか。
それからしばらく経った晩のこと。父が布団に入って30分ほどすると、不意に閉め切ったカーテンの向こうでフラッシュ。3秒ほど遅れて、雷鼓が大きく耳を揺さぶった。夕飯時に見た天気予報では、この地域は星が見えるほどの晴天だったはず。
「大外れだなあ」と、つい起き出して窓際へ。カーテンをわずかにめくって、ガラスとベランダ越しに外を眺める。
近くに建つ家々の影と、遠くでまばらにきらめいている店や街灯の明かり。見慣れたその景色から、ひょいと空を見やると、またも暗闇の中で何度も輝く光があった。
音が来るか、とカーテンの端を掴みながら待ち構える父。けれど、どうしたことか、なかなか雷の音が続かない。10秒以上待ったにも関わらず。音沙汰がないんだ。思わず父が窓に両手を貼り付けながら、より顔を窓に寄せて空を見やる。
ほどなく、またも空が光った。小刻みに何度も瞬き、思わず父も片手を目の辺りにかざしながら、つられて目をしばたたかせてしまう。始まりこそ、「でかい雷のお出ましか」と、父には若干の期待があった。でも窓にくっつけたままの左手を見やると、そんな気持ちは一気に吹き飛んだ。
自分の手の骨が透けて見える。以前、手の骨を折ったことがあったけど、その時に撮ったレントゲンの画像にそっくりだ。光が空を走るたび、皮膚中の骨が顔を出す。
ついては消えて、ついては消えて。窓の反射によって、そこに映る自分の姿も骨格標本のような姿を、同じタイミングでさらし続けている。胸から腹の辺りにかけて、かすかに骨が見えない箇所があるのは、パジャマのボタンが邪魔をするゆえか。
そして父が無数の点滅に戸惑っている間。ベランダには黒いカッパを羽織った人影が現れていたんだ。横に広いベランダは、隣にある両親の寝室とつながっている。その中央付近、洗濯ばさみや布団ばさみが置かれている空間に立つと、こちらへ向かって歩いてきたんだ。
男の身体もまた、光の明滅に従ってその姿を出したり消したりする。光る時のみ現れ、どんどん間合いを詰める姿は、まるでパラパラ漫画のようだった。
こいつと向き合っちゃまずい。父が本能的に察した時にはもう、男は父の前に立っていた。止まった足に代わり、今度動き始めたのは腕。黒い袖の先から伸びるは、これもまた同じ黒色の手袋をはめた手。
それが父の腹の辺りでわずかに止まった。続く稲妻の一拍のみで、手はわずかに窓をすり抜けて伸び、また元の位置へと戻ったんだ。
戻された手のひらには、ゴルフボールほどの大きさをした何かだったが、それが何か分からない。急に雷は点滅を止め、男の姿も一緒に消え失せてしまったからだ。
とっさに、窓を開けて外に顔を出した父を待っていたのは、これまで聞いたことがないほどに、大きな雷鳴。思わず耳を押さえてしまった父だけど、自分の下っ腹が急激に冷えていくのを感じていたらしいんだ。
そのすぐ後、冷えは痛みに代わって、父はトイレの中でしばらく籠城する羽目になる。これが人生で初めての、下痢の体験だったとか。
それからの父は、ちょっと冷たいものを食べてもお腹が鳴り出し、トイレに駆け込むことが増えた。無敵の胃袋の看板も下ろさざるを得なかったらしい。
あの男によって何がされたのか。それが分かったのは母と結婚する数年前、病院で検査を受けた時らしい。それまで父は腹の手術を行ったことがなかったのに、胃の上部がちぎれた後、つながり直したような、奇妙な形をしていたのだとか。
あの男は冷えに極端に強い胃を、何かしらの材料やサンプルとして持って行ったんじゃないかと、父は思っているらしい。