57話
それは少し前のこと。
「……ほう」
ドロホヴァ西部で敵の戦車を蹴散らし、歩兵部隊を突入させることに成功したドイツ軍の指揮官たちは一時的に会議を開いていた。
「つまり、ホト大将の部隊が南部より突入して敵の部隊を陽引し、意識を集中させる。その隙にドロホヴァ東部を制圧するということですか?」
グデーリアンの問いにホトは「というわけですな」と答えた。
それに異論を出したのが第4装甲軍を指揮するヘプナーであった。
「そんな戦力がどこにあるのだ??」
その問いは的を射ていた。
現状、40個の師団が彼らの手元にあるが、それでも三方を包囲するので精一杯であった。
敵の逆襲を考えればそれなりの予備も必要であり、とてもじゃないが東部を制圧するほどの余裕はなかった。
「逆襲などする余裕もないと思われる」
ホト大将はすぐさまそう答えた。
敵は遅滞戦闘に移行し、すでに多くの部隊がドロホヴァを離れているとも聞く。
「ここで、敵をせん滅できればこの先のモスクワ戦も楽になると思わんかね」
ホト大将のことばに諸将はうなずいた。
「して、東部を制圧するのはどの部隊が行いますか?」
ロンメルはそう尋ねた。
彼はこの中では最年少で、いささか物腰が低かった。
「やはり、英雄は華やかであるべきだ。なぁ?」
最年長のホト大将がそう言うと皆が頷いた。
彼らには安っぽい英雄願望なんて微塵もなかった。
ただひたすらに勝利を追い求めていた。
「『砂漠の狐』が『雪原の狼』になるかもしれませんね」
グデーリアンがそう言うとヘプナーとホトが「それはいい」と笑った。
「しかし、第1軍団以外はそのほとんどを市街地に投入していますので……」
ロンメルはそう言って断ろうとした。
「これは戦争映画のためでもあるんだよ」
グデーリアンはロンメルを戒める。
その言葉を聞いてロンメルは苦々しい笑みを浮かべる。
彼の名はもはやドイツ全土に知れ渡っている。
そんな彼が、東部前線を決定づける一撃を加えたとなれば大いに士気が上がるだろう。
「突入中している部隊の指揮は私が代わろう。代わりに自動車化歩兵師団を5つほどつけてやる」
ヘプナーはロンメルにそう言った。
彼の部隊は現在後方で予備の任務に就いている。
東部を制圧するのに十分な戦力となるだろう。
「貴官ならできると信じている」
ホト大将はそう言って笑うと、ロンメルの肩を押した。
「諸君、『親父殿』がやってくれた。あとは我らが趨勢を決定づけるぞ」
北方の高台からホト大将率いる部隊の動きを見つめていたロンメルはそう言った。
最年長のホトが最も困難な任務をこなして見せた
「諸君らの双肩に云百万の命がかかっていると思え。死ぬことは許さん、生きて勝利をつかみ取れ」
ロンメルは無線機に向かって静かにそう命じると、高台の下で隊列を整える部隊を見つめた。
「彼女たちを信じるほかないな」
「彼女たちなら、成功させますよ」
彼のつぶやきに、副官のモスト大尉が答えた。
そうだな、とロンメルは答えると無線機を手に取った。
「大佐、前進を開始したまえ。目標は敵の破砕である」
「全速前進!! 敵を蹴散らすわよ!」
ロンメル将軍からの前進命令を聞いた私はそう雄たけびを上げた。
「全中隊我に続け!」
私は床を蹴り、操縦手に前進の合図を送る。
すぐさまけたたましいエンジン音と共に戦車は前進を開始する。
背後には3個中隊。
そのさらに後ろにはロンメル率いる第1装甲軍が続く。
「大丈夫、今のところは順調よ」
胸に手を当てて、自らに言い聞かせるようにそう呟く。
史実から逸脱した戦闘を始めた。
もはや転生者としての知識を活かせることはほとんどない。
「諸君、軍歴を信じなさい。いままで戦い抜いた地獄を思い出しなさい。それでも、信じられなくなったときは諸君らを信じる私を信じなさい」
私はそう静かに語り掛けた。
「故国の勝敗。この一戦にあり」
1941年11月8日午前9時頃。
前日から始まったドロホヴァ攻防戦の決着をつける一手が打たれようとしていた。
ソ連軍はもはやドロホヴァの維持は不可能と判断。
7日の夜までには撤退を決意。
翌早朝にはモスクワとドロホヴァを結ぶ街道の南からドイツ軍戦車師団3個が迫るものの、7個師団をもって撃退。
後退中だった部隊の一部を引き抜いて追撃に転じた。
ソ連軍全部隊の視線が、市街地と南方のホト大将の部隊に注がれていた。
街道の北を警戒している部隊は、1個大隊とてなかった。
午前9時5分。
統合軍司令部直轄の第1旅団がドロホヴァ東方2キロメートルほどの所に出現。
10分としないうちに後退中であった第332連隊を撃破。
直後、街道の各地にドイツ第1装甲軍の部隊が出現。
瞬く間にドロホヴァとモスクワを結ぶ街道はドイツ軍の手に落ちた。
また、南方から迫ったホト大将の部隊も反撃に転じ、追撃していたソ連軍7個師団を撃滅。
これによりドイツ軍は15個以上の師団を撃破。
ドロホヴァの東西南北を制圧したことにより市街地では7個師団が孤立。
辛くも8個歩兵師団と2個戦車師団がモスクワへとたどり着いてものの、もはやソ連軍は風前の灯であった。
加えて、残った2個戦車師団も戦車をすべて喪失しており、一時的にモスクワ近郊に展開するソ連戦車部隊が皆無となった。
そう、ソ連軍戦車部隊は皆無となった。
ドロホヴァ西方20km。
カミラ王女達はドロホヴァへと全速力で向かっていた。
「ジューコフをここで失ってはなりませんわ」
王女はそう呟いて、地平線の奥を睨んでいた。
無数のソ連軍歩兵部隊が後退してくる。
聞くところによればドロホヴァは絶望的状況らしい。
「もう、ソ連は終わり。でしょうなぁ」
その場にいる多くの者たちがソ連の敗北を確信していた。
ドロホヴァからモスクワへはもう目と鼻の先だ。
だからこそ、ソ連軍は無数の部隊を投入した。
「殿下、もうイギリスにもどりやせんか?」
ジャスパーの言葉を聞いた王女は「黙りなさい」とにらんだ。
「ソ連軍人が隣にいるのにそんなことを言ってはいけませんわ」
王女はそう言ってエレーナに視線を向けた。
彼女の目には生気が宿っていない。
もはや、敵を探し求めるだけの人形のようであった。
おそらく、ジャスパーの言葉だって聞こえていないだろう。
「へいへい、解りやした」
その直後、無線機のから声が鳴り響いた。
「貴様らはどこの部隊か?!」
無線の主は前方からこちらに向かってくる歩兵部隊の指揮官であろうことは容易に想像がついた。
王女はめんどくさそうな顔をした後、無線機を手に取りその問いに答えた。
「私たちはイギリス軍独立近衛戦車大隊ですわ」
「なんだその部隊は! 聞いたこともないぞ!」
ソ連軍指揮官の言葉に王女は溜息を吐くとこう答えた。
「貴官の名は? 此度の無礼を書記長に報告させていただきますわ」
王女の言葉を聞いて、無線の奥にいる男は言葉を詰まらせた。
彼の名はこの国では大きな影響力がある。
政治犯や政敵を悉く粛正した彼はいずれ軍部にも手を付けるのではないかと言われている。
いや、史実では手を付けた。
「くっ……好きにするがいい!」
無線機からそんな声が響くと、通信が遮断された。
「莫迦の相手は疲れますわ」
王女はそう言って微笑む。
その直後、地平線の奥にいた歩兵部隊が妙な動きをし始めた。
今まではある程度の規律だって撤退していた彼らが突然、無作為に動き始めたのだ。
まるでそれは女王蜂を失ったハチのようであった。
「殿下! 敵の戦車部隊が来ます! 先頭には銀髪の女性将校とのこと!!」
その報告にカミラ王女は口角を吊り上げた。




