昆虫と氷
Dはコップに残った氷をバリバリとかみ砕きながら言った。
「『昆虫と氷』展…?何それ、聞いたこと無い」
「うん、私もチケット貰うまで知らなかった。なんでも、個人が趣味でやっている小さな博物館みたいで…」
「ふーん、誰から貰ったの、そのチケット?」
「知り合いの知り合いから回ってきたみたい…」
「ふーん、バリバリバリ…」
「…ねえD、その氷を食べる癖、なんとかならないの?ひょっとして、氷食症?」
「あ、ごめん。つい」
Dは、恋人がこのバリバリという音を嫌がるのを思い出して、素直にやめた。
「まあ、氷を食べるくらい別にいいんだけど…、ただあなたがバリバリ言う音で、こっちの言っていることが聞こえないんじゃないかっていう気がするだけで」
「うん、やめるよ」
Dは口の中の氷をごくりと飲み込んだ。
「で、その博物館に行くかって話だっけ?行ってもいいよ。自腹だったら行かないけど」
その博物館の室内は、冷房が効きすぎているくらいだった。真夏の日差しから逃げるようにして建物に入り、最初は心地よかったが、すぐにDと恋人は上着を羽織った。
なにしろそこは、透き通った氷のなかに昆虫を閉じこめるという変わった展示をしている場所なのだ。効きすぎの冷房は、氷が溶けてしまわないためのものだろう。
「にしても、変な展示だよな…。昆虫を氷に閉じ込めて何がしたいんだろう…?」
「そうね、涼しげではあるけれど、お金かかりそうよね…」
氷の前に置かれた虫メガネを、まじまじと覗き込むと、聞いたこともない種類のコガネムシが、鮮やかな水色の金属光沢を、氷の中でキラキラと反射させていた。
「確かに綺麗といえば綺麗だけど、光沢のある虫ばかりでもないみたいだし、つうかそもそも、こんな展示って倫理的に大丈夫なのか?」
「その点はご心配なさらず…」
眼鏡に白衣姿の変な老人が、突然大声で話しかけてきたので、Dはドキッとした。
『うわ…、なんだこの人…』
Dは内心思った。その老人は、近くにいるとゾッと一気に体温が下がるような、異様な雰囲気を持っていたのだ。
「殺生という点では、普通の標本と変わりませんから」
どうやらこの老人は、博物館の関係者であるようだ。Dたちの他に客もいないせいか、老人は大きな声で語り始めた。
「あなたも聞いたことはありませんか?氷河期のマンモスが『冷凍』で見つかって、表情がわかるくらい肉が新鮮な状態に保たれていたという話を…」
「は、はあ…」
「氷の中に保存しておくことで、他の方法ではかなわないような、いわばフレッシュな標本が可能になるのです」
『なんか、に寒いな…』
Dは老人の話はそっちのけで、冷房が効きすぎなんじゃないかと震えはじめた。そして恋人にさりげなく目配せをした。
『もういいだろ、帰ろう?なんか変な人に絡まれて面倒だし…』
『そうね…』
Dは無礼にならないタイミングで老人の話を切り上げ、出口に向かおうとした。すると
「おやもうお帰りですか?」
老人はまたあのドキッとするような大声を出した。
「は、はい。もう十分見たんで…」
「お急ぎでなければ、コーヒーでもお出ししますよ…。喫茶の方も趣味でやっておりまして、来場者には一杯サービスをしているんです…」
Dと恋人はもう一度目配せをした。
二人は喫茶コーナーの小さなテーブルに案内された。席は二人分しかなく、老人は同席して語るつもりも無さそうだったので、Dは安心した。
「どうぞ、アイスコーヒーとアイスティーでしたね…。あちらの図鑑などもご自由にご覧になっていってください…」
老人は紅茶をDの前に、そしてコーヒーを恋人の前に置くと、展示場の方に戻って行った。
「変なおじさんだったけど、飲み物をラッキーしたからいいじゃない…?」
「まあな…」
実際、アイスティーの味も悪くなかった。展示場の方は恐ろしく寒かったのに、喫茶のコーナーは飲み物を淹れる際の熱気が立ち込めるせいか、少し蒸しているように感じた。Dは早速アイスティーを飲み干すと、また氷をバリバリやり出した。
恋人は昆虫図鑑などをパラパラとめくるのに夢中になっていたので、またDがバリバリと音を立てて氷を噛んでも、今度は文句を言わなかった。
だが、恋人はコーヒーを半分くらい飲んだところで、いきなりむせ込んだ。
「だ、大丈夫か…?」
恋人の口から噴き出したコーヒーが図鑑に飛んでしまったので、跡が残らないうちに、Dは慌ててテーブルの紙ナプキンで拭った。
「ゲホゲホゲホ…、ね、ねえD…、これ見て…」
真っ青な顔で、恋人はアイスコーヒーに入った氷を指さした。
「うげ、なにこれ!!」
氷の中央には、指の先ほどの虫が入っていたのだ。
Dも顔を真っ青にして立ち上がった。
「あのおっさん、飲み物にも昆虫入りの氷を使ってやがったのか!!」
「まあまあまあ、そう騒ぐことではありませんよ」
Dたちの声が聞こえたのか、老人がまたあのドキッとする大声を出した。
「昆虫食…、というのを聞いたことがありませんか?虫を食べることが、来たる食糧難に対する切り札として、研究されているんです。…その虫は、人体に害はありません。第一、氷はまだ溶けきっていないじゃないですか」
「食べれるとか食べれないとか、そういう問題じゃない!食べ物の中に虫がいるというのは気持ち的に抵抗があっ…」
「D、落ち着いて!あなた、さっき、氷食べてなかった…?」
「はっ…!」
Dは慌てて口を押えた。だが時すでに遅し。Dのアイスティーに残っていた氷は、既にDの胃袋に収まっていた。Dの額に嫌な汗が流れ、悪寒が走った。
「いや…、俺の氷に、虫は入っていなかった…、と思う。だって入ってたら、さすがに気付くだろ…」
「あの、紅茶の方にも、虫入りの氷を使ったんですか…?」
恋人は白衣の老人の方をまっすぐ向いて真剣に尋ねた。
「まあ、全ての氷に虫を入れているわけではありませんから、入ってなかったとおっしゃるなら、無かったのでしょう…」
『なんだか、煮え切らない返事だ…』
恋人はその後コーヒーに一切手をつけず、二人は後味の悪さを引きずりながら博物館を後にした。
その夜、Dは寒気がすると言って倒れた。恋人が手を握ると、ひどく冷たかった。
熱を測ると驚くほど低く、恋人は慌てて救急車を呼んだ。
「さむい、さむいよ…」
Dはガタガタ震え、自分では立てないくらいに弱っていた。
病室に運ばれると、彼はどうしても寒いというので、この真夏に、クーラーを切らなくてはならなかった。だが、彼がいるだけで、病室全体がちょうどよく冷えてくるので、クーラーは必要ないくらいだった。恋人が横になったDをそっと抱きしめると、ひんやりして心地よかった。
「あなた、まるで人間クーラーね…」
「冗談じゃねえや、さむさむさむ…」
医者がやって来ると、恋人は尋ねた。
「先生、体温が12度7分なんて状態で、人は生きていけるものなんでしょうか…?」
「いや全く、聞いたことがありませんね。だが現に彼はこうして生きている…。一見しただけでは、体温が低い以外に異常もないようだ。とりあえずレントゲンでもとってみましょうか…」
レントゲン写真を一瞥すると、医師の顔はさっと血の気が引いた。普通の身体にあるはずのない小さな影が、全身に広がっていたのだ。
「この影はまさしく…」
「何なんです?ああさむいさむい…」
「寄生虫…、ですね…」
「え、そんな…!?」
ショックを受けた恋人は、ここ最近の出来事を思い出しながら言った。
「先生、感染経路に、一つだけ心当たりがあるのですが…」
恋人は医者に「昆虫と氷」展に行ったこと、そこで飲み物に昆虫入りの氷を入れられたことを話した。
「決めつけるべきではないと思いますが、彼がこうなったのは、あの直後だったんです。彼がバリバリと食べてしまった氷に、寄生虫が混じっていたということは、考えられませんか…?」
「そうですね…、普通の寄生虫は氷の中では死んでしまうように思いますが、わたくしの専門外なので何とも…。いっそ、研究所で検査してもらうことにしましょうか…?」
Dの身体は寄生虫専門の研究所に移された。恋人は研究所内まで付き添うことは許されず、彼は
数々の機材の置かれている無機質な部屋の中央に、一人寝かせつけられた。
「被験者4021号…。経過は順調か…」
聞き覚えのある声に、Dはうっすらと目を開けた。そして目を疑った。
「お前…、博物館にいた…!?」
「ああ、お久しぶりですね…。先日はどうも…」
寝ているDの顔を見下ろすのは、博物館にいた、眼鏡に白衣の老人だった。
「お前、よくも飲み物に変なものを仕込んだな…!おお、さむさむさむ」
「『変なもの』とは心外ですな…。大変だったんですよ、あれを生み出すのは…」
「やっぱりか…!一体何をいれた…!?」
「1mmほどのごく小さな虫ですよ。ゲノム編集をして、人の体内に寄生し、人の体温を奪って生存する種を作り出したんです。氷点下のような超低温でも生き延びられるから、氷に仕込むことができました…」
「じゃあやっぱり、お前のせいで、俺はこんな体に…」
「ええ、お察しの通りです。あれは人の体内で増殖して、その人の体温を下げるうえに、周囲の温度まで下げてくれます。まさに『人間クーラー』ですね」
Dの頭に、恋人が冗談で言った言葉が蘇った。
「なんだよ、人間クーラーって…」
「ほら、人間は、暑いといって冷房をつけるでしょう。しかし冷房を使うことで、地球はまた熱を帯びる。で暑いといって、また冷房を使う。これじゃあどこまで行っても悪循環から抜け出せない。だから私は考えたんですよ地球に負荷を与えない冷房手段が必要だとね。地球温暖化はあなた方だけの問題ではない。地球に暮らす誰にとっても重大な関心事ですから」
白衣の老人は口調は、次第に妙な熱を帯びていった。
「というか、大体どういうつもりなんでしょう、人が増え過ぎたら今度は昆虫を食べればいいってのは!?ただでさえ温暖化によって昆虫に限らず、植物や動物の分布が大きく変わって、どんな生き物も、生き残りが大変なんです!!そんなタイミングで昆虫食なんて言い出すのは、人間にとって都合がよすぎるんじゃありませんか?少しは虫の身になって考えたらどうなんです!?」
気付けば老人の目の焦点が合わなくなっており、老人は眼の前にいるDに話しているのか、ただ熱のこもった独りごとをうなされているだけなのか、よくわからなくなっていた。
「そもそもね、人間が昆虫を食べるばかりだと思ったら、大間違い!人間こそ、昆虫に食べられたらどうなんです?多すぎた人口も減るし、人間クーラーになって地球も涼しくなる。いいこと尽くめじゃないですか!」
老人の狂わんばかりの長広舌を聞かされているうちに、なぜかDの瞼は次第に重くトロンとしてきた。
「ああ始まりましたね、虫が脳に侵食し始めたみたいです。これで身も心も虫に乗っ取られて行くことでしょう。」
「な、に…?」
迫り来る眠気の中でDはなんとか意識を保とうとした。
「あいえ、死にはしないですよ。慣れれば普段通り生活できるようになります。そしてあなたもこの計画の一部になるんです、僕のようにね」
『そうだったのか…』
断片的な意識の中で、Dはようやく理解した。この老人は、既に虫に侵されていたのだ。重い瞼からなんとか老人を見ると、焦点の合わない老人の眼の奥に、何かが蠢いているのが見える気がした。
すると老人は何かの紙をDの手に握らせた。それはあの「昆虫と氷」展のチケットだった。その際老人の手のひらが触れたのだが、思った通り、人のものとは思えない冷たさだった。
「ああもう大丈夫です、今はそのまま少し眠っていてください。起きたら、今度はあなたがこのチケットを、誰かに渡す番です。…いえ、心配いりませんよ。そのときには、自分が何をなすべきか、自ずとわかってくるはずですから…」
Dは残った意識の最後の片隅で、老人の言葉を聞いた。もう抗うことはできなかった。そして体の内側で何か小さいものが動き、静かに、冷たく、蝕まれていくのを感じた。