ワニが速ぇ
「俺を弟子にしてください!!」
「……え?」
朝日が眩しく廃屋達を照り付ける午前9時。
此処は、窓からその朝日に照らされた灯馬の店。中にいるのは灯馬と乃南、そして頭を下げている執平。
というのも、昨日出会ったばかりの乃南に、弟子入りを懇願していたからだった。
「こ、困ります! 私だってまだ1年ぐらいですし……」
「俺より早くフィギュアセラー始めたんだな!? じゃあ弟子にしてください、師匠!」
執平は頭を何度も下げる。それは全く以て男らしくない姿だった。否、逆に男らしいと言えば男らしいが。
森へ行く際に、何か危険が迫った時の為に自分より強い人が必要だと思ったからしている行動と考えると、納得のいく行動である。
「森に入ったところで、昨日も言ったが今のお前じゃまだ早い。椎名もそう言ってんじゃねえかよ」
呆れた灯馬が頭を下げている執平の前に立って腕を組み、執平が森に行く事を再び拒む。
だが執平は灯馬の声に反応して頭を上げると、手を腰に当てて浅く俯いて溜め息をつく。
「だからこうして弟子入りを望んでるんだ。お前にゃ関係無いだろ灯馬?」
執平は前方に立ち塞がる灯馬を軽くあしらうと、乃南の方を見て屈託の無い笑顔を見せる。
最初はやはり森は止めておく事に賛成していた乃南も、執平のそれを見ると検討がつかなくなり、取り敢えず苦笑を含んだ微笑みを返した。
「……あ、そうだ。ここに行く途中で“DCカメ”倒したから売るわ」
丁度その時、執平が思い出した様に、やけに膨らんでいるジーパンのポケットから、あるフィギュアを取り出した。
そのモンスターフィギュア、名をDCカメ。Lv.1。
甲羅がごみ箱の形をしていて、街中でごみ箱に紛して人を襲う、形はユニークなモンスター。勿論、倒そうと思えば誰にでも倒せる。
「はいはい、200円な」
灯馬は鑑定作業を飛ばして、カウンターテーブルの下の箱から200円を取り出して渡す。DCカメは何回か売った事があるらしく、安い値段だが執平は驚きはしなかった。
「そういえばフィギュアバイヤーって買ってばっかりでどうやって利益を得ているんですか?」
するとその時、乃南が顎に人指し指を付けながら、唐突に質問を突き付けて来た。執平もそれに同感してカウンター席に座り、話を聞く体勢を作る。
そんな2人に対して多少の困惑を見せた灯馬は目を瞑り、少し悩んでから答え出した。
「……フィギュアバイヤーは全員が各々“土管”を所持している。フィギュアを入れる大きな管の事だ。その土管に買ったフィギュアを入れると金が土管から投げ出される様に出てくる仕組みになってる」
「……不思議なもんだな」
「モンスターによって出てくる金額は地域別で決まってる。洞窟に住むモンスターを洞窟の近くのフィギュアバイヤーに売るのと、全く離れた場所のフィギュアバイヤーに売るのとじゃ額が違うんだ」
真剣な表情の2人を相手に、灯馬はその顔を見ながら話を続けた。
「それを俺達は鑑定で見出だし、フィギュアセラーの分の利益も考えて各々買う額を決めるんだ。均衡価格ってやつだな」
そう言って収入源の話を終えた灯馬は何か理由がある訳でもなく、窓から外を眺めた。
彼を他所に執平と乃南は、土管の中はどうなっているのか、誰がどうやって土管を設置したのか等を話し始める。
「どうせならフィギュアセラー1人1人に専用の土管設置してくれりゃいいのに」
「どうですかねそれは。私みたいに旅をする人もいますし。だから各地にフィギュアバイヤーが居るんですよ、きっと」
乃南の予想を聞いて、DCカメのフィギュアを手に持っている灯馬は感心した表情で彼女に近付き、少し笑いながらカウンターにフィギュアを置いて、話を膨らまそうと会話に参加した。
「鋭いな椎名。確かにそれもある……が――」
だがしかし、途中で何かに気付いた風に目を見開き、咄嗟にその“何か”を言いそうになった口を閉じて黙り込んだ。
「……何だ?」
途中で言葉を止められると、どうしても聞きたくなるのが人間という者である。執平と乃南も例外ではなかった。2人は聞きたそうな顔で、更にカウンター越しに灯馬に寄って行った。
その圧力に耐えられなくなった灯馬は、2人の服を掴み、強制的に扉の方へと振り向かせる。
「これ以上は何も言わねぇ! ……もうお前椎名連れてさっさと森でも何処でも行ってこい!」
2人の背中を押し、あしらう様に手だけを下から上へと振る灯馬。それを見た乃南はまさしく裏切られた感覚に陥り、口をあんぐりさせた。
「え……! は、反対してたじゃないですか!?」
「忘れてた! 行きましょう師匠!」
執平は愕然としている乃南の手を掴んで扉を開けて、鈴の音を鳴らして店を後にした。
それを見届けた灯馬の額には、1滴の冷や汗が流れている。
「嫌われる……かな。アイツにフィギュアバイヤーの本来の仕事内容が知れたら……」
意味深な言葉を呟くと、灯馬は転がっているDCカメのフィギュアを手に取り見つめると、それを持って店の奥へと徐に入っていったのだった。
――街の入口付近――
それから少しして、執平は諦めたような顔をしている乃南を連れて軽快に歩き、街の古びたゲートを出て、所々に木の生えた平地を闊歩しているところだった。
相性が悪そうな2人だったが、突然、相性など関係無いとばかりに執平が会話を切り出して来た。
「師匠、実は昨日の夜、森に潜むモンスターについて調べてました! 持参の本で!」
「あの……、師匠と敬語はやめてくだ――」
「そしたら凄いモンスター見付けたんすよ!」
これから森に向かうのをまるで遠足に行く子供の様にワクワクしながら、執平は乃南の言い分を無視してそう言うと、持参のリュックの中から分厚い本を取り出した。
そのかなり古びた本を見た乃南は、敬語を止めさせるのも忘れて驚き、そして呆れた。
「コ、コレ、全部読んだとか……?」
「まさか! 面倒臭いですよ全部読むなんて。売ったモンスターの確認とか、気になったモンスターに狙いを定める為に故郷から持って来ただけですって」
冗談を飛ばす様に笑って言い放った後、執平はその本を乃南に渡す。
表紙には“モンスター図鑑”と書かれていた。
何故執平の故郷にこんな物があったのか、と乃南は突拍子の無い疑問を感じたが、この分厚い図鑑をパラパラめくっていく内に、フィギュアセラーとしてだんだんと興味を示すようになっていった。
そして一旦図鑑を閉じると、立ち止まって隣の執平の方を向く。
「この図鑑、暫く私に貸してくれませんか?」
そして一緒に歩いている彼に向かって、両手に持つ図鑑を自分の胸に重なる様に近付けて、興奮冷めやまぬ表情でニッコリ笑ってそう頼み出したのだった。
そよ風を髪の毛に受けながら放った、乃南の純粋な笑顔攻撃を受けた執平は、少し照れた様に頬を人指し指で掻きながら悩んだ。
ふと、彼がもう1度乃南の方を見てみると、そこには頭を下げている乃南の姿があった。執平はそんな姿を見て、弟子の立場としてこの上無く焦り出す。
「ちょ……師匠が簡単に頭下げちゃ駄目じゃないですか! 貸します、貸しますとも!」
乃南は決して企みがあって笑みを見せた訳ではない。ごくごく純粋な笑みである。そんな表情と頭の下げる姿に、執平はあっさり折れた。
だが、彼に承諾してもらって頭を上げた乃南の表情は、苦笑いだった。理由は無論、『師匠』と呼ばれた事である。
「……どうもありがとう執平君。そして私は師匠なんて柄じゃないです……」
――ポーチには入れられない為、ひとまず図鑑を執平に渡す。
すると執平は、何かを思い出して重たい図鑑をまた開き始めた。
「ところで話戻しますけど、凄いモンスターってのは……コイツの事です」
左手で図鑑を支え、右手の指で頁をパラパラとめくりながら、ある頁のあるモンスターを執平は指指した。
機械で打たれた字体で、内容はこう書かれてある。
――――――――――
“ジェニー・ワット”
Lv.3
主な生息地:森の中
特徴:鰐の頭にジェットのついた足と尾。背中には鋭く、すぐに生え変わるトゲが数十本ある。足と尾を利用した猛スピードと、顎のパワーに要注意。
――――――――――
「見た事無いですこんなモンスター。……確かにワニですね、変わったワニ」
「コイツ見付けて殺しましょう!!」
やる気満々の執平は、図鑑を持っていない方の手でガッツポーズを見せる。乃南は彼を横目に苦笑いして、掲載されているジェニー・ワットの絵をまじまじと見ながら考え事をした。
「一見防御の為にありそうな背中のトゲも、意外と危なそうですね。気を付けないと」
乃南が髪を耳にかけながら要注意事項を確認しているところに、図鑑を持っている執平は、先程から乃南に言いたかった事をごもごもした口調で言い放った。
「あのぉー……、敬語はやめてくれますか? 師匠なんですから」
まだ懲りずに『師匠』と呼び続ける執平に、乃南は再び苦笑いして図鑑から執平の方へと視界を移し、呆れた風に言い返した。
「師匠じゃないですって! あと、貴方が敬語使うのをやめてください! 私はこういう性格なんです!」
「……じゃあー、性格直してください!」
図鑑を閉じながら無邪気に笑いつつ難題をぶつけてきた執平に、乃南は少したじろいで戸惑うのだった。
「性格直すって何ですかー!?」
平野にも関わらず、乃南の声が木霊した気がした。
――数十分後――
口論がありながらも、なんだかんだで結局馬が合ったようで、昨日今日の仲と言うのにも関わらず、相性の差を乗り越えて会話の弾んだ2人。
彼等は今まさに森の前に立っていた。
先程歩いていた平地とは一転して、緑の多い地帯。この辺りは人が通った跡による道が出来ている。それに、森だけあって流石にこの場所は空気が澄んでいて、街中で生活している人間にとっては汚れた空気を吸っている身体を洗い流すに持って来いの道だった。
――しかし、道の近くに刺してある看板には“モンスター出没危険”と書かれていた。容易に通れる場所では無いのは確かである。
にも関わらず、その道は森の深みへと2人を誘う様に続いていた。ともあれ2人はフィギュアセラー。危険看板等、気には止めていなかった。
「この道を辿れば広い場所に出ます」
1度この森に入った事のある乃南は、そう言ってやはり躊躇無く森へと入って行った。
「よし! やるかぁ!」
執平も意を決して乃南の横に並んで、道に倣いながらこの深い森へと足を踏み入れていった。
「――朝だってのになんか暗ぇ」
「所々木漏れ日がありますけどね」
遂にやって来た、執平にとって初の試みであるモンスターの生息地、森。
いつモンスターが襲って来ても決しておかしくはない中、2人は歩きながら言葉を交えていた。
その時、いきなり後ろの茂みからガサッと、草の揺れる音がした。唐突な効果音に驚いて、2人は素早く振り向く。執平は槍を構えて身を守ろうとし、乃南は腰のナイフに手を当てた。
――だが、2人の反応は無意味な物だった。
「……ん?」
「何も……居ませんね」
茂みの音がした方には、モンスターは疎か、動物の1匹でさえ現れる事は無かった。薄暗い事もあって、より緊張感があった執平と乃南だが、何も無い事が解ると安堵の溜め息をついて慎重な警戒心を解く。
「ははっ。なんか怖いですね」
そう言って恐怖感を言葉にする執平だが、本心では楽しさの方が勝っているらしく、歯を見せながら笑っていた。
――丁度その時だった。
2人の周りに紫がかった白い霧が、数え切れない程の葉と枝を屋根とした、森という名の暗い家をも飲み込むかの様に、辺りに立ち込めていたのだった。
「森に……霧?」
乃南は腰のナイフに再び手を添えて、自分達を囲む霧を見渡して疑問を呟いた。
「よくある事なんじゃないですか? それより、もっと奥に行きましょうよ師匠!」
霧を特に気にしていない執平に腕を握られて連れられた乃南は、木にぶつかってもなりふり構わず泳いで流れる霧の中を、ゆっくり奥へと進んでいった。
その時、執平は何か吐息の様な掠れ声が聞こえた気がしたが、鼻で遇らう様に、この場を後にした。
――2人は暫く歩いていく内に、川の流れる草原の広場に出た。それと同時に、木々が殆ど無くなった事で日光が2人の目を襲う。
「うわ、明るっ!」
「んー眩しい。でもすぐに慣れますよ。……あ、そこの川は安全なんですよ。飲めるんです」
早くも明順応し終えた乃南が、そう言って草原広場に流れる川を指指した。2人は走って川へと近付いていく。
だが、途中である異変を感じ、何故か段々とその足取りは遅くなっていった。
その“ある異変”を執平が川の近くにしゃがんで再び確認してみるが、執平はやはりおかしく感じていた。
「すんごい濁ってますけど」
おかしいと感じた理由ーーそれは、乃南の言葉を掻き消すかの様に、目の前の川が緑色に濁っていた事だった。
気持ち悪いと言わんばかりの、舌を出す表情を見せた執平。無理も無い。とても飲めそうになかったのだから。
「嘘……、私がここに来たのはつい一昨日の事で、その時は透明だったのに」
訝しげに呟いた乃南は、川沿いを川上まで歩いて調べに行こうと歩き出す。執平はひとまず立ち上がってそれに続く。
そうして乃南が歩きながら水面を覗いた、その時だった。
「グギャァァ!!」
あろう事か、川の中からいきなり大口を開けた鰐が水飛沫と共に飛び出て来たのだった。
その鰐は、姿からして例のジェニー・ワット。
乃南は迫力あるその鰐に、思わず叫んで尻餅をついてしまった。
「キャァァァ!!」
「師匠!!」
執平は反射的に槍をジェニーに向かって投擲した。彼の手から放たれた槍は一直線に飛んで、上手い事ジェニーに命中する。
ジェニーは槍が刺さった事で怯み、悲痛な叫び声と共に水飛沫を立てて川の中に転がっていった。
「師匠! 大丈夫ですか!?」
執平は草原に手と尻をついて座っている乃南に近寄った。乃南は腰を抜かして動けずにいた。
「ハァ……ハァ……、あ、ありがとう」
「多分また上がって来ます! ていうか上がって来てもらわないと槍取り戻せないんで、俺潜って無理矢理上がらせてきます!!」
執平のいきなりの大胆発言に愕然とした乃南は、慌てながらもその案の危険度を明確に説明した。
「え……む、無茶ですよ!! 水の中じゃワニの方が数倍有利です! 顎やトゲだってあるんですよ!?」
「でも……」
執平は川の方を見て、考えも無く投げてしまった槍の安否を気にする。
しかしながら執平の希望を叶えてあげるかの様に、丁度良くジェニーが自ら再び川から這い上がって来た。鰐独自の何十本もの牙を歯軋りさせながら、凄い怒った形相でこっちを見つめている。
――やはり叶えてあげたかった訳でも無い事は、手に取る様に判った。
「自分から出てきたか! 槍返せ馬鹿鰐!!」
逆ギレする執平に、ジェニーは大きな口を開けて威嚇した。そんな凶暴な鰐の背中には、偶然にも槍が、川の中で抜き取れる事無くそのまま横になって刺さっていた。
「グガォォゥ!!」
怒りに任せて叫ぶジェニーに、乃南は腰の抜けた状態でナイフを手に持ちながらも少し戦いて、憤りを見せる執平に会話を催す。
「どうやって槍を引き抜くんですか!? 背中にはあんなにトゲがあるんですよ!? 慎重に行動して隙を見付けて――」
「待てないですよそんなの!」
槍を早く取り戻したい一心のあまり、懸命に説得する乃南を無視した執平。
対するジェニーは顎を開いて、走ってくる執平を罠の様に待ち構えていた――様に見えたのだが、ジェニーの尻尾の様子がおかしかった。
その時、執平に予期せぬ出来事が起きた。
ジェニーの尻尾の先端にあるジェットから勢い良く火が噴き出し、その勢いでジェニーが猛スピードで執平に飛びかかって来たのだ。
「グガァァァー!!!」
「うぉーー」
――その刹那だった。
執平がその速さに感嘆の声をあげる余裕も無い程のスピードで突っ込んで来たジェニーの、何十本もの硬く鋭い牙が、少し反応が遅れた執平の右の脹脛を噛み付いて捕らえたのだった。
「うぁぁぁぁ!!!」
無防備だった右脚をまんまと噛まれて流れ出た赤い血を緑の草原に飛散させながら、執平はジェットの勢いでジェニーと共に木に激突する。
「執平君!!」
乃南は今の光景を見て震撼すると共に、執平とジェニーがミサイルの如く激突した方を凝視した。
ジェットの煙がモクモクと、1人と1匹の行方を白いベールで隠しながら舞い上がっている。
――その煙が晴れた時、執平は噛まれた右脚等ものともせずに、ジェニーの背中に刺さった自分の槍を掴んでいたのだった。
「クソ……が」
しかし、ものともせずとは言うものの、痛みは走ってやって来ていた。それになんとか堪えながら、苦い顔の執平はとうとう槍を引き抜く。
「鰐の分際で速ぇスピードで突っ込んで来やがって……! お返しだこんにゃろぉ!!」
いきり立った執平は、一緒に突っ込んだジェニーの背中のトゲを、今引き抜いた自分の槍を横に振り払う事で何本か斬り落としてみせた。
――先に刀の刃を付けているこの槍は、突く武器であると同時に斬る武器としても活用出来る。
銛の様な形だったら充分には成し得ない攻撃であるが、執平はそれを熟知していた。
執平は無傷の左脚だけを使い、トゲを斬り取られて怯むジェニーから間一髪で離れる。
(あーまいった、右をやられた……。骨砕けてねぇかなチクショー!)
血が絶え間無く流れる右脚を、執平は出血による大量の汗を頬に垂らし、1本の木に腕を巻いて寄り掛かりながら見つめていた。
しかしその時、思わずその右脚を地面に付けてしまった。
「い――!!」
その瞬間、執平は木に巻き付けていた腕の力を更に加えてしがみついた。地面に付けた事により、激痛が電気の様に身体中に迸ったのだった。
左手は木に、右手は槍を杖代わりにしてなんとか持ち堪えているが、表情は今までに無い程苦しんでいる。
「執平君! やっぱりLv.3はまだ無茶です! 隙を見付けて街へ帰りましょう!!」
執平の酷い怪我と表情を見てられなかった乃南は、苦汁を嘗めている執平を引き止めようと近寄った。
だが、執平は首を横に振り、乃南の気遣いを再び無駄にした。執平は狙うと決めたモンスター相手の場合とても諦めが悪く、それは無茶な子供の様だった。
「ここまで来て手ぶらで帰れませんよ……。師匠帰りたいなら、どうぞ。ここは俺1人で大丈夫です」
「そんな……!」
どんどん強くなる激痛により汗と血を流し、息が切れている執平と、それを見てただ心配する事しか出来なかった乃南。
そんな2人が味わっている絶望感に畳み掛ける様に、ジェニーのトゲは図鑑に書いてあった通り、何事も無かったかの様に既に生え変わっていた。
「あの顎とジェットをどうにかしないとな」
ギリギリの状態で、対策を練る為に頭を使っていた執平だったが、そう考える余地を与えてくれないジェニーはすぐさま凄い勢いで再び飛びかかって来た。
「だ、駄目だ、避けられねぇ……!」
ジェニーは鰐らしい黄色く鋭い目を光らせながら、次に左脚を狙おうとしている。そんな危険を前にしながらも、執平は避けるのは疎か動けもしなかった。彼は意を決して目を瞑った。
――しかし、ジェニーの叫び声と同時に執平の耳に入って来たのは、自分の脚を容赦無く噛み倒す音ではなく、何かが何かに容赦無く刺さる音だった。
彼が恐る恐る目を開けると、前方にはジェニーの姿は無く、後方へ目を向けると、ジェットで彼に向かって突進していた筈のジェニーが無惨にも木に激突している光景が目に映ったのだった。
その情けない姿の鰐の左目には、1本のナイフがグロテスクにも突き刺さっている。
つまり音の正体は、ジェニーの左目に何処からか飛んで来て刺さったナイフの音であった。
「し、師匠!」
「これで借りは無しですよ?」
ナイフは――勿論言うまでもなく、乃南の物だった。
乃南は無邪気な笑みを再び見せたが、今回はすぐにその笑みを止め、ジェニーの方を向いて別のナイフを構え、真剣な目つきを見せる。
執平は呆気に取られた表情で、先程とは違った勇ましい彼女の姿を横で眺めて、槍を杖にしながら佇む事しか出来なかった。
(あんなに速かったのに上手いこと目を……!)
「凄ぇ」
執平は彼女の投擲の命中率の高さに、感嘆の声をあげずにはいられなかった。
「槍と右脚を見てください」
そんな時、その乃南が険しい目を絶やさぬまま執平に言及した。
執平は首を傾げたが、取り敢えず言われた箇所ーーまずは右脚をそっと覗く様に見る。
すると、緑色の液体が付着して汚されているのが彼の目に映った。
「何だこりゃ……!?」
「あのワニが体内から出す特殊な体液でしょう。だから川は汚れていたんです」
それを聞いた執平は顔を青冷め、一気に焦りを見せ始めた。
「もしかして……ど、毒!?」
「判りませんが、どの道倒すなら早めが良さそうです。執平君には申し訳無いですけど……、ワニは私が倒します」