「満月の夜」
ずっと、ずっと「消えたい」という心を抱えてきた。
小説家になる夢を諦めきれず、ずっと小説を書いてきたが、一つも世間の目にとまることはなく、朝起きて、妻の作ってくれた朝食でお腹を満たしては小説を書く、出版社に持って行って、突き返されてはひどく落ち込み、その度妻に励まされる、そんなことを幾度となく繰り返してきた。
しかし、もう限界だった。
私の夢を叶える為に朝から晩まで働いて、夜に帰ってきて、私の為に夕食を作る妻を見ていると、これ以上迷惑をかけられまい、なんて自分は不甲斐ないんだという想いが溢れ出し、ある晩、妻が寝たのを見計らって、私は近所の公園の池に飛び込んで自殺しようと考え、夜中に家を出た。
家を出る直前、寝室を覗くと、まだまだ若い妻はまるで娘のような顔つきで眠っており、私はこのような若い娘を妻にし、夢の為に働かせていたのかとひどく後悔した。
自分とさほど年齢が変わらないのに、妻の方がやけに美しく、若く見えた。
公園に着くと、月の光と電灯だけが辺りを照らしていて、どこか気味の悪さと夜独特の雰囲気が辺りを包んでいた。
私は迷うことなく柵を乗り越え、池の水に目をやった。
濁った水に綺麗な満月が映されている。
そこに私はいない。
生活の音が聞こえなくなった夜の世界にさえ私は写っていないのか。
ああ、なんと悲しく、惨めなことか。
私は最後に満月を見上げると、惨めな自分を小さく嘲笑って、妻のことを考え、ごめんな。と小さく呟いて、池に飛び込もうとした。
その時、誰かが走って来る音が聞こえて、振り返ると、その刹那、柵の方へ引き寄せられ、柵に身体がぶつかり、痛みを感じる。
「何してんの!!」
そこには妻がいた。
寝間着の上にカーディガンを羽織って来たのだろうか、走って来たときに落としたのか、妻のカーディガンが落ちていた。
滅多に大声を出さない妻が大声で私を怒鳴りつけた。
「ねぇ、何してたの!!死ぬつもりだったの!ねぇ、答えてよ。答えてよ!!私一人残して死なないでよバカ!!」
そう言った後、妻は静かに泣き出し、静かに「私がいるから消えないでよ。」と言った。
私は見つかってしまったからには仕方ないと思い、ごめん。と謝って柵を乗り越えて、妻を抱きしめた。
「悪かった。許してくれ。」
妻は泣きながら、「なんでこんな時もそんな口調なの。」と少し小馬鹿にしたように言った。
妻とは私が働いていた高校で出会っただめだろうか、今でもつい生徒に接する口調を使ってしまう。
思えばおかしな人生だ。
大学を出て、高校で働いて、妻と出会って結婚して、仕事を辞め小説家を目指し、己の才能に呆れて自殺を試みれば、それも失敗に終わった。
ああ、ほんとうにおかしなものだ。
家に帰ってからも、妻は明日も仕事なのに、夜中じゅう私を叱った。
朝方、妻は今日は仕事を休むことに決め、私と共に床に入った。
なんとなく気まずさを感じていると、妻が突然私のことを抱きしめ、静かに呟いた。
「もっと私にすがっていいんだよ。」
「君にこれ以上迷惑をかけたくない。」
「なんで?」
「だって、私は自分の夢を追いかけてばかりで、君に何もしてあげられていない。君から奪うばかりだ。」
「小説家になりたくないの?」
「なりたい。なりたいさ。でも、これ以上君に迷惑をかけたくない。」
「私、あなたが夢を追いかけてる姿が好きであなたと一緒にいるんだよ。あなたが夢を諦めたら、私はあなたのことを多分嫌いになる。だから、追いかけてよ。死に物狂いで追いかけてよ。夢をつかんで、私にもその世界を見せてよ。」
「わかった。でも、私にも何かさせてくれ。君ばかり働かせる訳には…」
「その必要はないってば。さ、もうすぐ夜が終わっちゃうから夜のうちに寝ようよ。」
妻は私の耳元に顔を近づけ、静かに囁く。
「素敵な小説家さん。」
その言葉を聞いて、抱え込んでいた毒が消えてしまったかのように感じ、それと同時に色んな感情が私の心臓の近くで溢れ出した。
私は妻の体を手繰り寄せ、赤ん坊のように泣きじゃくった。
妻はそんな私を母親のように笑っていた。