Episode:62
自分がペットとして売られた理由は、頭が良かったからだと聞いている。
たぶん事実だろう。
実際売られる前の時点で、教わらずとも文字は読み書き出来たし、掛け算くらいはこなしていた。
一度聞いたら忘れないだけの記憶力もある。
だがそれでも、「申し子」と言うには程遠い。それがイノーラの、自分に対する判断だった。
申し子というならこの程度の数式、たちどころに解けなくてどうする。心底そう思う。
ただ八進法だと気づいたことで、作業のスピードは上がってきた。
銀河標準式と照らし合わせて、この星独自の演算記号もおおよそ分かってきているし、式そのものが理解できたものもある。
恐らく、大統一式と関係があるだろう。
銀河標準式と並べて書かれたものがあったため、これはかなり最初の時点で特定できた。
そしてあちこちで、この変形式らしきものを見かける。
だがその他は、見たこともない式ばかりだった。
しかもそれらがどう繋がるのか、なかなか見えてこない。ジグソーパズル以上に難解だ。
全体的には、何か次元を繋ぐものに見える。
とはいえ勘でそう思うだけで、証明出来ていないから、未だ可能性のひとつに過ぎなかった。
ため息をついて伸びをする。
少し休憩したほうがいいだろう。
薄布の裾を踏まないようにして立ち上がる。
(ジャマですわね……)
叔母のエルヴィラが言うには、地球人にとっての服というのは、ベニト人のボディペイントに相当するらしい。
だから仕方なく身に着けているが、ずっとペットとして裸で育ったイノーラにしてみると、ただただジャマなものでしかなかった。
出来ればこの薄布は脱いで、ベニト人と同じようにボディペイントにしたい。
だが「地球の親が泣く」というエルヴィラの一言が、イノーラに布を纏わせていた。
もうおぼろな記憶でしかないが、母親を泣かせることは出来ない。
ふと、いつか会えるのだろうか? と思った。
飼い主の死という事態から銀河市民権を得るに至って、今は自由の身だ。
ならば地球へ行くことも出来るのではないだろうか?
――自由。
その言葉の持つ意味に、少しだけ気が付く。
売られた先の環境は、イノーラにしてみればけして悪くなかった。
たしかに母親とは引き離されてしまったが、ひもじい思いは一度もしていない。
何より飼い主は自分のことをとても大事にしてくれた。
望めばなんでも与えられ、学びたいと言えば大喜びで先生を探してくれ、難しい問題を解くとマスコミまでが来て、飼い主は鼻高々だった。
そんな嬉しそうな飼い主を見るのが好きで、イノーラはさらに学んだのだ。
だが思い返せば、すべて「箱の中」でだった。
ベニト星の環境は、地球人が生きられる環境ではない。
だから飼い主は莫大な額をかけて邸宅の一部を改造し、地球と同じ環境を作って、可能な限り一緒に暮らしてくれた。
イノーラもそんな飼い主が大好きで、まさに親だと思っていた。
けれど、箱の外へ出たことは無い。
もちろん、連れ出してもらったことは数え切れないほどある。
但しそれも別の箱へ入ってのことで、自身でどこかへ行こうとしたわけではない。常に行き先は、誰か他の人間が決めていたのだ。
それに疑問を持たなかったのは……知らなかったからだろう。
地球に居た頃も、ベニト星へ来てからも、自分で何か決める必要などなかったのだ。
だが今はその気になれば、自分で決めることが出来る。