輪廻の歌 8話 黒い右手
「ひっく……ひっく」
だれかが、しゃくり上げて泣いてる。すぐそばで。
「うええっ……うえっ……」
ああ……黒い髪の男の子だ。内股に立ちつくして、蒼い衣の袖でぐしぐし涙を拭いてる。
「ぺ、ぺぺ……ぺぺぇ……」
こいつ、また兄弟子のエリクにいじられたのかな?
大丈夫だよハヤト。おいらがエリクに後ろ足キックをお見舞いしてやるから。
ハヤトは、すごいよ。
もうネクラじゃないし。当番ちゃんとしてるし。導師になるための段階試験もクリアしてるし。
おいらに毎日手作りニンジン料理食わせてくれるし。
こないだなんか、年終わりの祭りのプレゼントに、おいらにニンジンケーキ作ってくれたじゃん。
三段もあってすっげえでかい奴。あれ、すっごくおいしかった。
ほんとすごいよ。自信持てよ。な? そんなに泣くなよ。ほら、涙拭いてやるから――
あ……れ?
おいらの手、なんで人間みたいな手に……
でもこの手……真っ黒いな。ふやけてるし。
ご、ごめん。こんな手でさわったら……気持ち悪いよな。
それじゃ歌でも歌ってやるよ。
あ……れ?
おいらの声、なんで出ないんだ?
うぐっ……ごめ……口からなんか、変な水がぼこぼこ出てきて……
唄えないよ……あ、こっち見ないほうがいい……かも。
なんか、おいら、ぐちゃぐちゃだ。ごめん。ごめ……
「弟子いっ! ばか! このばか! ばかやろう! なんで天から俺を引き戻すんだっ!」
あ……
そう、だった。
そう、でし、た。
おいら……ううん、僕は、もうウサギじゃない……
ハヤトは、今は僕のお師匠さま。
ああでも。なんか頭がもうろうとして……
ウサギだった時の記憶と。今の記憶が。ごちゃまぜになって……
「今すぐ俺の体に入れ! 俺は天に戻る!」
見えないけれど、絶対泣いて、ます、ね……これ。
いや、ですよ。そっちには、戻りません、からね。
「おまえがペペに何かしたのか?!」
あ。灰色の導師に、つっかかって、ますね。導師の声は……まだよく、聞こえません。
「あれ? なんで? ちくしょうなんで、魂抜けねえんだ! 禁呪ぶちかましても魂が離れねえ!」
すごい……魔法の気配。体全体が重くて。押しつぶされそう、です。
「おま……え……俺のぺぺに何したあああああああ!!!!!」
あ……お師匠さま、キレてる……。
「ざけんじゃねええええ!! こいつは俺のだ! さわんなちくしょう! おまえら殺してやる!!!」
おまえら? まさかフィリアも、攻撃対象? だ、だめ、です! お師匠さ――
「俺の、美少女に転生♪超ハッピーエンド計画を、台無しにしやがってえええええ!!!!」
……は? い?
「俺が超かわいい絶世の美少女に生まれ変わって、超かっけえアスパシオンなペペに押しかけ女房する予定だったのにいいいい!!」
ちょ……それ、年の差、いくつです?
この人たしか、三十才余裕で越えてますよね?
今から生まれる女の子を嫁にしろ? ぼ、僕、犯罪者になりたくありません!
ていうか、我が師が「絶世の」美少女にって……。
……。
……。
……。
か……勘弁して下さいっっ!!
いやですきもちわるいですそうぞうできませ――
「俺とペペは晴れて押しも押されぬラブラブカーップル! になるはずだったのに! ちくしょうふき飛んじまえええっ!!! 『四肢引き裂け獅子の咆哮! 出でよ深淵の牙!』」
――「私のペペ!」
え?
僕の体の奥底から、灰色の導師の声が響……!
その瞬間。
僕の目がカッと開き、僕の体は一瞬で起き上がって船室戸口に飛び出して……
「ぐっ……あああっ!」
僕の右腕に恐ろしい衝撃が食いこんできました。
黒い液体が周囲に飛び散り。すぐ目の前に天を突くように立つ灰色の導師の衣に、びしゃりとはね飛びました。
「ぺ……ぺぺ!!」
ずちゃっと嫌な音をたてて倒れた僕の真うしろに、我が師がいました。
右手は光り輝く紫色。顔は、顔面蒼白。
右手の紫の光をたちまち消した我が師は、頭を両手で抱えてその場に膝を折りました。
「そ……そんな……そんな! なんでペペがこいつの盾になるんだ!」
だ、大丈夫、ですよ。今のはたぶん四肢を引き裂く韻律だろうけど、全然痛くないし。
あ……あれ? 右腕が、ちぎれて……る?
床にごろって転がってる黒ずんでる塊、きっとそうですよね……ぼ、僕の手だ……。
「素晴らしいだろう? これが《魔人の子》。我が生ける盾だ」
灰色の導師がくつくつ笑いながら腕を組み、戸口の枠にもたれかかりました。
そのすぐ後ろで、蒼い顔のフィリアが尻もちをついた形で、床に両手をつけてわなないています。
「たとえバラバラになろうが、決して死なぬ。私に直接呪いを放っても無駄だ、黒の導師! どんなことをしても、その矛先はこの《魔人の子》にいくぞ」
だからおとなしくしろ、と灰色の導師がたたみかけると。
我が師はしゃがみこんで悲鳴とも呻きともつかぬ苦悶の声を放ちました。
「よりによって、なんでメニスの純血種なんかに目を付けられた? この世で一番けったくそ悪いバケモンに……エリクはどうした? あいつ何してんだよ? ちくしょうう!」
うわ。しがみついてきた。
ぶじゅっと、僕の体からどす黒い液体が染み出してきました。
腐ってふやけてどろどろなのに、我が師は構わずきつく抱きしめてきました。
でも僕には、何の感覚も感じられませんでした。我が師の腕のきつさも。暖かさも。何も……。
「私のペペ。アスパシオンを韻律で縛れ」
灰色の導師の冷酷な声が響くや。ころがっている僕の右手が勝手に動きました。
ま、まさか、そんな……!
『戒めよ、縛りつけ。奪え。自由な声を。自由な手足を』
僕の口から勝手に韻律が飛び出し、たちまち強力な魔法の気配が降りてくると同時に。
床に転がる僕の黒ずんだ右手から、ありえぬことにまっ白な綱のようなものが放たれました。
なんという光量!
まばゆい光は我が師が瞬時に張った結界をぶち破り、我が師をあっという間にがんじがらめにしました。腕どころか口にまでしっかり巻きついて、韻律の発動を阻止しています。
信じられません……すごい魔力を持つ我が師をこんなに簡単に封じ込めるなんて。
「いい子だ、私のぺぺ」
灰色の導師がにやりと笑いました。まるで悪魔のように。
「しばらくそこに這いつくばっていろ」
「お母様やめて! かわいそうだわ」
涙ながらに訴えるフィリアに、灰色の導師は答えました。ぞくりとするほど低く、冷たい声音で。
「フィリア。まさか木の寝台を修理しただけで、おまえを吹き飛ばした罪が消えるとでも?」
あ……。
「愛しい娘よ、おまえを殺した者を、親の私がそう簡単に許せると思うか? 我が妻がどうか容赦してやってくれと連日平身低頭私に願ってきたから、我慢していたのだがな。やはり許せぬわ」
ああ……。
「罪の報いを受けるがいい、魔人の子。そこで動かず、おまえのもと師が泣くのを見ていろ」
僕のひどい姿を我が師に見せつける?
泣きじゃくる我が師を、ずっと目の前で見ている?
そんな……なんて……罰……。
体の痛みを感じない僕に……たぶんもう二度と感じられない僕に、灰色の導師は一番堪える罰を下したのでした。
心がはりさけそうな罰を。
それから僕は、本当にしばらくの間、放っておかれました。
ごんごんうなる飛空船の船室の中で。
びいびい泣く我が師の前で。
ずっと、放置されていました。
『そこに這いつくばっていろ』
そう主人の命令を受けた僕の体は、動かしたくとも全く微動だにしませんでした。
僕のために泣いてくれたフィリアは、無理やり灰色の導師に引っ張られ、別の船室に連れて行かれてしまいました。
我が師を縛る光の戒めの魔力は、僕ではなく体内に入った変若玉から出ているもののようです。戒めを解こうと我が師ががむしゃらに暴れていますが、まったく歯が立ちません。
「むがー! もがー! ふぐー!」
蒼い瞳から大粒の涙をボロボロ落としながら、我が師はずっともがいていました。
これは僕が望んだこと。だから泣かないで下さい。暴れないで下さい。
僕は何度もがぼがぼ黒い水を吐きながら頼んだのですが。
それは全くの逆効果で、我が師の涙は止まるどころかとめどなく流れるばかり。
とても見ていられなくて、僕はずっと船窓に視線を向けていました。
円い船窓から垣間見える空は、吹雪いていてまっ白。
日が暮れたのか、その色がどんどん暗くなってきました。
ふと、甘い香りが漂ってきました。 こ、これは……
「ごめんね、ぺぺ。遅くなって」
鳶色の髪の少女が、足音を忍ばせて船室に入ってきました。
ああ、メニスの甘露の香り。
まさかこの香りだけは、感じられるのでしょうか?
甘い香りが我が身に染み入るようにまとわりついてきました。
「お茶に薬を入れたら、お母様、やっと眠ってくれたわ。今のうちに……」
え? 片手に持っているのは、ナイフ?
ま、待って! 何をす――!
叫ぶ間もなく、フィリアは自分の腕にナイフを斬りつけました。
みるまに真っ白い血がぽたぽた流れて、僕の体に落ちてきました。
真っ白い、真珠のような甘露が――。
以前、バーリアルがうそぶいていたこと。
『メニスの血で死んだ体がよみがえる』
あれは、本当のことかもしれません。
「これでだいぶ体がよくなるはずよ」
驚いたことにフィリアの甘露がかけられたとたん、僕の体から流れていた黒い液体がぴたりと止まり。みるまに呼吸が楽になり。ガフッと深い息が口から漏れて、胸の中に空気が入り込んできました。
それからフィリアは僕の肩に腕をまわして支え起こし、ずるずる船室の外へ引っ張っていきました。
「ごめんね。私には、純血種の《魔人の子》を自由にしてやることはできないわ。でもどこか安全な場所に運ぶことはできる」
――「むがー! もがー!」
船室から我が師が呻いています。俺を置いていくな、と言っているのでしょう。
「ペペ、お母様は……メニスの純血種は、とても残酷なの。怒っている時は、本当に恐ろしいことを平気でやってのけるわ。今だってあなたを溶岩の池の中に投げ込んでやるって言って、ほんとに火山に向かってる」
フィリアは僕を運びながら湿った鼻をすすりあげました。
「それでもあなたは死ねない。黒焦げになっても……その体が粉々になっても……時間がたてば、少しずつ元に戻るのよ。苦しみながら」
――「むがああああ!」
我が師がいっそう大きく唸るのが聞こえてきます。
「そう……お母様は、何度もあなたを殺すつもりよ。あなたのお師匠さまの目の前で。何度も。何度も」
フィリアは結晶が突き出した凸凹の坂をくだり、飛行船の船倉へ入りました。
まるっきり洞窟のそこには、少女が乗ってきた大きな鉄の鳥がありました。
でもフィリアはこの鳥から窓に飛び移ってきたはず。一体誰がここに置いたのでしょう?
「もう、俺様死にそう。勘弁して」
あ。兄弟子さま!
鉄の鳥の背に、ひげぼうぼうの兄弟子さまがぐったり寄りかかっています。
「フィリアちゃん、人使い荒すぎ。アミーケにぶっとばされて監禁されてた俺様を助けてくれるのはいいんだけどさ。満身創痍の人をアゴでこきつかうって、どういうことなの」
「操縦ありがとう。兄弟子さん、今度は鳥になって、ここから逃げてね」
「ちょ、逃げてね♪ って。乗っけてくんねえの?」
「鉄の鳥の定員は、二人までなの」
――「むがああああああああああ!」
上の層から我が師のうなり声がびりびり響いてきました。岩を突き抜けてくるほどの、ものすごい低音です。
フィリアは申し訳なさそうにちらと上を向き、それから僕を鉄の鳥の背中に乗せました。
「兄弟子さんは、ペペのお師匠さまを乗せて飛んで。私が今、あの人を運んでくるから――」
「うええええ、めんどくせえええ!」
そのとき。みしみしと恐ろしい音がして、結晶がびっしり生える船倉の天井に一面ひびが……。
「うあああああああああ!」
深く長く走ったひびのむこうから、虹色の光が射しこんできて。
「ああああああああああ!」
恐ろしい呻き声と共に、砕けた天井の岩と結晶がバラバラ落ちてきました。
「いけない! 鳥がつぶれるわ!」
フィリアがあわてて鉄の鳥に飛び乗り、何かひとこと韻律を叫ぶと、落ちる岩の雨をかいくぐるように鉄の鳥が動き出しました。
『開け岩の門!』
続け様に放たれた韻律の命令で、船倉の一方の壁がずごごごと大きく開きました。
舌打ちしながら兄弟子さまがたちまち瑠璃色の大鳥に変じ、天井から岩と一緒に落ちてきた虹色の塊を背中に受け止めるのが見えました。
あの塊は――我が師です。光の戒めに縛られたままですが、虹色の光がまるで炎のように燃え立っています。
「うああああああああ!」
「だまれハヤト! うるせえ! ヤケドすっから、その人体発火やめろ!」
「兄弟子さん! 私の後について来て!」
大きな鉄の鳥は雪が吹きすさぶ暗い空に飛び出しました。
めんどくせえええ! と叫びながら、虹色の塊を乗せた大鳥が後に続いてきます。
「あ……」
鳥の背にうつぶせに乗せられた僕の眼に、だらりとさがる黒ずんだ腕が映りました。
さきっぽのない腕……。
「僕の……右手……」
たしか、ころがったままでした。船室に。
鉄の鳥の背に乗せられた僕は視線を動かして、ぼうっと宵の空に浮かぶ巨大な鳥の形をした飛行船を眺めました。ぴくりとも動けぬまま。
すると飛行船の船首付近がぱあっと一瞬明るく光り、それから猛烈な勢いで僕らを追いかけてきました。
「あなたのお師匠様のおかげで、お母様が目を覚ましたようね。でも速度はこちらの方が上よ。私こっそり改造してるから」
フィリアが韻律を唱えると。鉄の鳥はぎゅん、と旋回しながら天へ舞い上がり、ものすごい速さでぶ厚い雪雲を突き抜けました。
星。星。星。
星の海――。
雲海の上の満天の星空がうわっと迫り、僕らに覆いかぶさるように迎えてくれました。
鉄の鳥は雲海の上でぎゅんぎゅん唸りをあげて滑りだしました。
「冬の落ち星だわ。今年は多い……」
一面に広がる雲と漆黒の空のはざまに、光の筋がいくつも落ちていきました。
音もなく、静かに。いくつも、いくつも。