序歌 2話 聖なる刻印
黒い衣の老人――魚喰らいに引きずられ、僕はいやいや歩かされた。
呆然とする頭でやっとのこと考えたのは、なんとかして逃げられないか、ということ。
魚喰らいが見せた幻の中の父さんは、完全に酔っ払っていた。僕を連れてっていいと言ったのはきっと本心じゃないはずだ。
たしかに父さんは優しくない人だけど。すぐに母さんや僕らをぶつけど。一番上の兄さんばっかり大事にするけど。それでも僕の十歳の誕生日に、新しい靴を買ってきてくれた。だから僕をいらないなんて本気で言うはずない。
すきを見て魚喰らいからうまく逃げ出してやったら、すごいなおまえってびっくりして、連れてかないようにかけあってくれるかもしれない。そしてもう一人前だなって一目おいてくれて……兄さんたちと同じように、一緒に街に連れてってくれるようになって……屋台の串焼き肉とかを食べさせてくれて……お菓子も買ってくれるかも。お菓子は持ってかえって、こっそりテレイスと分けて食べるんだ……。
けれども魚喰らいの蒼く鋭い瞳は、そんな僕の考えなどとっくにお見通し。逃げられないようがっちりと僕の腕をつかみ、白綿蟲が降りつもる街道をさくさく踏んでいく。道のそばの泉でしばらく休憩した時。魚喰らいが泉の水を両手ですくって顔を洗う隙を突き、脱兎のごとく駆けてみたけれど。
「テレイス、今戻るから!」
どんなにがむしゃらに走っても、周りの景色が全然進まなかった。
僕の体は僕の住んでた村の方角を向いていたのに。
僕の足は僕の住んでた村に向かって足を動かしてるのに……。
「まだ道中は半分。水を飲んでおきなさい」
ま後ろから、魚喰らいの声がかぶってくる。
「なんで? なんで?」
老人は片眉を上げ、あせって手足をばたつかせる僕の首ねっこをつかんだ。
「影をとらえているからだ」
見れば僕の影が、踏まれている。逃げ出したとたん、とっさに足を出されて止められたらしい。うなだれる僕に片手ですくった水を無理やり飲ませると、魚喰らいはまた僕を急きたてた。
「さあ、行くぞ」
ほどなく真っ青な湖が、左手の方に見えてきた。
きれいなきれいな湖。ぴかぴかに磨いた、鏡のよう。そのほとりには、こぢんまりとした街がある。
この王国の一番北の果ての街。大街道の終着点。
その名前は、「果て町」――。
日が沈むぎりぎりに、僕らは「果て町」に入った。
一刻でぐるっと一周歩いて回れそうなとても小さい街。でも大街道とつながってるから、大通りにはお店がずらり。通りはきれいな石畳で、赤レンガの家々もみんな背が高くて立派だ。
日が暮れて、明るい街灯がぽつぽつ点き始めている通りでは、積もった羽蟲を道の脇に掃きためてる人たちの姿が目立ってた。みんなふうふう汗をかきながら、通りをきれいにしていた。
魚喰らいは僕を連れて、まっすぐ船着場に行った。
ひとひと蒼い水が打ち寄せる板張りの船着場には、一枚帆を張った小船が二艘。身なりのとてもいい人が数人、小船に荷物を運び込ませている。その人たちは僕らを見ると一斉に羽のついた帽子をとり、片足を引いてお辞儀してきた。話しかけてきたのは、宝石の首飾りをつけたとても偉そうな人だった。
「おばんです、黒き衣のレクサリオン様。供物船の準備をいたしております。今週はパン五樽にワイン五樽を寺院にご奉納させていただきます」
「管理官どの、かたじけない。他の長老方は?」
「庁舎にて、捧げ子様たちと休んでおられます」
魚喰らいはこくりとうなずいて、明日供物船と共に出航すると告げてから、僕をぐいぐい街の庁舎に連れて行った。
僕は何度も振り返って、羽帽子の偉い人をまじまじと見た。
この国にはいっぱい領主さまがいるけれど、この北の果て一帯には領主さまがいない。そう父さんがいっていたのを思い出したからだ。王様がじきじきに治めてて、管理官という人たちに管理させてる、とかなんとか。
『ここはド辺境だけどなあ、魚喰らいどもと、どっかのお貴族様が特別に仲良くなるのは、王さまは気にいらねえってことらしいな』
王国の北の果ては岩山だらけ。人なんて、全く住んでいない。
湖を隔てたむこうには、魚喰らいたちの住む「寺院」があるだけだ……。
街の庁舎は街の真ん中にある五階建ての大きな建物で、中にはお役人さまがたくさん。
僕らはその一階にあるとても広い部屋に通された。僕と同じぐらいの子が長椅子に並んで座っている。
一、二、三……全部で四人。全部男の子。
その向かいに黒い衣の魚喰らいたちが一人一脚ずつ、赤い絹張りの椅子に身をうずめていた。
一、二、三……全部で四人。黒い衣は、銀色の縁取り。僕を連れてきた人よりは、偉くないみたい。
「これはレクサリオン、とうとう連れてこられましたか」
黒い髭ぼうぼうの人が立ち上がり、にこやかに両手を広げて僕を連れて来た老人を迎えた。
「この子がそうですか。なるほど、賢そうですね」
長椅子の四人の子たちが食い入るように僕を見ている。
なんだかみんな、ひどく身なりがいい。色が白い子の服も黒い子の服も、袖や裾にびっしり刺繍がされてある。金髪の男の子なんか、白いひらひらのシャツで金縁取りの上着を着ていて、襟とか袖に宝石がついている。赤毛の男の子も……きっちりした青い綺麗な上着。金色のボタンがきらきら光ってる。
僕はなんだか無性にはずかしくなって、まくっていたシャツの袖をそうっとおろした。
土ぼこりでくたくたのシャツ。お祭りの時の晴れ着ぐらいは着てきたかったかも。それでもこの子たちの素晴らしい服には、かなわないけれど。
でもそれからすぐに、みんなの身なりは同じになった。魚喰らいたちは僕らの服を脱がせて、おんなじ白装束を着せたからだ。
「これって……」
僕はみるまに蒼ざめた。
「死んだ時に着せられる服じゃないか!」
棺に入れられる時のはなむけの衣装。白い絹の衣に、美しい刺繍が入った白靴 。
去年テレイスのおばあちゃんに、この衣装を着せた。舟の形をした棺に入れて、魂が無事に天へ戻りますようにと見送ったんだ。とまどう僕を尻目に、他の子たちは平然とした顔でいる。
「ねえ、どうして死に装束なんか着るの?」
すぐ隣の赤毛の子に囁くと。その子はしばらく黙っていたけれど、肩をすくめて囁き返してくれた。ちょっと訛った言葉で。
「僕らは死んで。乗る。お舟に」
「し、死んで?!」
思わずあげた大声に、みんなが一斉に僕を見た。男の子たちも。魚喰らいたちも。
「心配することはない。本当に死ぬわけではないからな」
ちょっとの間をおいて、黒い髭ぼうぼうの魚喰らいがにこやかに言った。
「君たちは大陸同盟によって、魔力高き子、将来黒き衣をまとうにふさわしいと公認され、我らのもとに捧げられてきた。寺院に入るということは、俗世を捨てるということだ。それは死者と同義である」
タレナム……?
難しい言葉でいわれたので首をかしげて意味を考えていると。僕を連れてきた一番偉いらしい魚喰らいが、僕たち五人の襟ぐりをはだけて、それぞれの胸元に順繰りに手を当ててきた。その間、他の魚喰らいたちはずうっと呪文を唱えていた。その声がとても美しい合唱のようだったので、僕はとてもびっくりした。
皺だらけの手が僕の胸元に触れてきた瞬間。じゅっと、胸が焼けた。僕はひいと悲鳴をあげた。黒肌の女の子は歯を食いしばって耐えてたし。ほかのみんなも悲鳴を必死に殺してたのに。
きっとみんな育ちがいいんだ。取りみだしたりあばれたり。そんなことはみっともないって思ってるんだろう。
でも。
「熱い、熱い、熱い……! なんだよこれ!」
育ちの悪い僕は手を離されたとたん、膝を折って叫んでしまった。胸には赤い焼印。魔法の力を帯びたそれは丸い何かの紋様で、ぽうと赤く光っていた。
「聖印を埋め込んだ。これで君らは、この世のものではなくなった。明日昼過ぎに、出航する。それまでこの部屋でゆるりとしていなさい」
魚喰らいたちは僕らを残して部屋を出て行った。部屋の扉に、外からしっかり鍵をかけて。
夕ごはんは、出なかった。大きなマットの上に、みんなで雑魚寝だった。
お腹がすくは焼かれた胸は痛いは、さんざんな目に遭わされて、僕は声を押し殺して泣いた。
隣の赤毛の子も、金髪の子も、他の二人も、みんな絶対泣いてたと思う。どの子も小さく身を縮めて震えながら、胸についた印の痛みに耐えていた。
朝が来て。
赤く光る胸の印が、すうと消えて見えなくなるまで。