くろがねの歌 10話 世捨て人
「……きゅ?」
目を開けると。
ぽわぽわ浮かぶ、白い光の玉。あたり一面光の玉。
星空?
群れなしてふわふわ動いているということは。
「きゅきゅきゅ?」
ホタル?
光る蟲の群れが見えます。
あれから僕は鍾乳洞のどこかへ転がり出て、だいぶ長い間気を失っていたようです。
とても暗い洞窟の中で、大きな湖が蒼白く光っています。その湖面の上を飛び交う、ホタルのような虫の群れ。群れの数はひとつふたつですが、まるで生き物のようにうねり、とても明るい光を放っています。
僕はよろっと起き上がり、そして気づきました。
ウサギである我が身が、柔らかい藁で編まれた籠にすっぽり入れられているのを。
「もうホタルカゲロウの時期は終わりだなぁ」
湖の岸辺に、しゃがんでいる人影が見えます。よく見ればその人は、黒い衣を着ているようです。この人が拾って籠に入れてくれたのでしょうか?
「おや? 目が覚めたのか?」
その人が、こちらを振り向きました。無精ひげがぶわっと生えた顔が、蟲の光で青白く照らされています。
「急に足元に転がり落ちてきたもんだから、びっくりしたぞ」
「きゅ! きゅきゅきゅきゅ!」
着ているのは黒き衣。とすると、この人は絶対導師様のはず。
でも、蛍光に照らされたその顔は、今まで一度も寺院で見たことがありません。それに。黒き衣は、裾も袖も擦り切れてとてもボロボロです。
「は? なになに? だれぞの使い魔のようだが、ちょっと何言ってるか分からんな。なんかおまえさん、変な魔法をかけられてないか?」
その人は僕をまじまじと覗き込み。それからひと言唱えました。
『その言葉は、無に帰した』
とたんに強力な魔法の気配が降りてきて、僕の周囲に漂う呪いの空気を打ち消しました。
こんなに強い魔力は、今まで感じたことがありません。
驚く僕の手足は突然ぐわっと膨張して。長い耳はパッと消え失せて。みるみる体が大きくなって……。
「うわ。こりゃあ、驚いた。人間の子だったのかぁ」
目を丸くする髭ぼうぼうの人の前で、僕はぶるっと震えました。
ああやっと。やっと、元の姿に戻れました!
「大丈夫か? しっかし寒そうだな。すっぽんぽんじゃないか」
「だ、だいじょ……ふえっくし! ありがとうございますっ」
あまりの寒さにがくがく震える僕に、その人は笑いながら、肩に羽織っていた上着のようなものを脱いでばさりとかけてくれました。藁を編みこんだもののようです。
「ま、とりあえず穴倉に帰るか。ここは超寒いからな」
「あなぐら? あの、あなたは?」
「あー、名前か? カラウカス様から、なんて名前をもらったっけなぁ」
鼻をほじりながら、その人はホタルカゲロウの舞う蒼白い洞窟の天井をあほんと見上げました。
「あはは、忘れたわ。俺は十五年ぐらい前に、死んだことになってるんだよな」
「し、死んだ?」
無精ひげの人はカラカラと明るく笑い、あんぐり口を開ける僕の肩をばしばし叩きました。
「まあ、積もる話をゆっくり聞こうじゃないか。酒でも飲みながらな」
穴倉。それに、お酒?
なんだか別世界に来たようで、頭がくらくらします。
まさかここは、あの世? それとも、夢でも見ているのかも?
無精ひげの人は不安いっぱいの僕の腕を掴んで歩き出しました。
鍾乳洞の奥へ奥へと。
寺院の地下に広がる鍾乳洞は、なんと広大なのでしょう。
大きな水晶がびっしり生える空間。
真ん丸い石がびっしりと地を覆っている洞窟。
緑や紫の小さな滝……初めて目にするところばかり。
ぼろぼろの黒衣を着た人は、僕が罰を受けてさまよった草地や滝のある所とは、全く別の方面に向かっているようです。暗い洞窟を迷うことなくサクサクと進んでいきます。その足慣れた様子に、僕はひどくとまどいました。
この人は一体何者?
僕が寺院の弟子であることは間違いなくばれているはず。
地理的に鍾乳洞に入れるのは寺院の者だけだからです。故意に人語を封じられたウサギが転がり込んできたのですから、寺院で何らかの不祥事があったことは容易に推測されていることでしょう。
「で、どうしてここに?」
髭ぼうぼうの人が唐突に振り返って聞いてきましたので、僕はドキドキしながら、ざっくばらんに答えました。
「鷹に追われました。その鷹は、悪いことを考えていて……僕はそれに巻き込まれました」
「おやおや。悪い導師に目をつけられたのか? まさか北五州の面倒を見てる奴らか?」
「えっ? は、はいそうです」
「やっぱりか。奴らは寺院の中枢を牛耳ってて、特に恐ろしい連中だからなぁ」
髭ぼうぼうの人は、ぶるっと身震いして言いました。
「あいつらに関わったやつはヒドイ目に遭う。俺の師匠も……。いやしかしよく、逃げ切ってこられたな」
湖の岸辺の岩壁を蹴ったら抜け穴が出てきたことを話すと。髭ぼうぼうの人は、おおあそこか、と声をあげました。
「あそこはな、昔防災対策で作られた避難通路ってやつだ。ちょっと前まではあの穴を使って避難訓練なんざやってたんだぜ。地震がひどかったからな」
「地震?」
「湖にな、潜んでたのよ」
髭ぼうぼうの人はにやっとしました。
「でっかいヌシが巣食っててさ。四六時中地震を起こしてたんだ。何回か津波も来たなぁ。それで万が一寺院が崩れた時のためにって、あの抜け穴の避難路が作られたんだ」
「ヌシ? 竜みたいなものですか?」
「トカゲっぽい顔の、亀みたいな、変な生き物だったな。この星の先住種には違いない。実は鍾乳洞の穴から迷い込んできてな、何十年も帰り道がわからなくて泣いてたんだよ。それを師匠と俺ら弟子たちがひょんなことで見つけて、北の湖に逃してやった。そしたらぴたっと地震が収まって、めでたしめでたし。避難路は用済みになって、ふさがれたってわけだ」
なんだかおとぎ話のような話です。でもそのお話は、どこかで読んだような気がします。どの本だったでしょう……。
足がくたくたになってきたころ、ようやく目的地に着きました。
「穴倉」と髭ぼうぼうの人が呼んだところは、壁がさらりと熱く乾いた洞窟にありました。地熱で汗が出てくるほどの蒸し暑さです。
いくつも小さな巣穴のような洞窟が並び、その少し大きめのところに髭ぼうぼうの人の寝床がありました。そこには草で編まれた茣蓙が敷かれてあり、草で編まれた籠がたくさん置いてあります。籠の中には光るコケのようなものや、魚の塩漬けや、刈り取った草がいっぱいです。
「近くに地底草の草地がある。太陽の光をあびなくても、熱でぐんぐん伸びる草だ。これが藁より具合がいい。おまえが今はおってるのも、地底草を編んだやつだよ」
僕がもらった羽織りものは編み目が粗いですが、とても滑らかで麻のような肌触り。なるほど、鍾乳洞に生える草にはいろいろなものがあるようです。
「これからお前の服を作ってやる。今のはちょっと短かすぎるからな。下の方が全然隠れてないだろ」
僕はカッと顔を赤らめました。歩いている間中、ずっと両手で前を隠して歩いていたのを気づかれていたようです。
「ぼ、僕も手伝います」
「大丈夫だ。おまえはちょっと休んどけ。ほら、こいつを飲めよ」
髭ぼうぼうの人は、とても大きくてまっ白で丸い袋を差し出しました。中に液体が入っていて、たぷんたぷん揺れています。
「でっかい竜魚の空気袋にな、酒を仕込んだんだ。地底草のそばにゴリゴリの実ってのがたくさん成ってる。そいつを寝かせるといい飲み物になるんだ」
「えっと、僕まだ見習いの弟子ですけど……」
「かたいこと言うな。ここは寺院じゃない。あそこの戒律は守らんでいい」
魚のエラからとった空気袋の袋は、とても丈夫でつるつるしています。
匂いを嗅げば、まるでブドウ酒。おそるおそる口にすれば、爽やかな酸味。
「おいしいです!」
僕は夢中でごくごくと飲みました。いい飲みっぷりだと、髭ぼうぼうの人は大声で笑いました。
それから草を切りそろえる作業を手伝おうとしたのですが。すぐに頭がぐらぐらして、あっという間に僕はほんわりと熱い岩に大の字になっていました。
「おやすみ。ぺ……」
え? 名前を呼ばれた?
この人に、いつ名前を教えたっけ?
視界がぐわんと回転しました。僕は目を開けていられず、夢のない深い眠りへと落ちてしまいました……。
ずいぶん長いこと眠ってしまったようです。
目を覚ますと、すでに草の服ができあがっていました。袖はありませんが着丈は膝より下まであり、とても着心地の良いもので、爽やかな草の香りがします。
髭ぼうぼうの人は編み目をきつめに編んだそうです。なるほど、すうすうすることも透けて見えることもありません。
「なかなかおしゃれだろ? あとで袖も作ってつけてやる」
ぼろぼろの黒い衣じゃなくて、これと同じ服を着たらいいのに。
僕は髭ぼうぼうの人を見てそう思いました。でももし本当にこの人が本物の導師なら、他の服を着ないというのは納得がいくことです。
黒き衣は力の証。そして、この世の者ではないという証。
導師になると、生まれた時にもらった名は取り去られ。新しい名を与えられ。己が会得した技の色の衣をまとうことが義務づけられます。
力を持っている者であることを、周りに隠すことは許されません。
たったひと言の韻律で生き物を殺すことができるほどの技。黒き衣は、そんな恐ろしい技を使える者であることを周囲に示すものです。
おそらくこの人は、世捨て人のようになっている今も、導師としての義務を固く守っているのでしょう……
「いやぁ、そんな真面目な意味で着てるんじゃないぞ」
え?
「あ、すまん。俺な、人の心がちょっと読めるのよ」
目を見張る僕に、髭ぼうぼうの人はぼりぼり頭を掻いて苦笑しました。
「なんかえらく感心されて困っちまうなぁ。なんというかまあ、めんどくさいから着替えないだけさ」
「そ、そうなんですか」
「あと、この衣は俺の師匠の形見だから、意地でも脱ぎたくないって理由もある」
「形見? ということはお師匠様の衣なんですか?」
「そうだよ。亡くなった時に貰ったんだ。俺の弟弟子も欲しがったけど、じゃんけんで勝ちとったわ」
「じ、じゃんけん?」
「はじめ一回勝負でやったら、負けやがった弟弟子が三回勝負だって言い張り出して、しかも後だしだとかはじめはグーだとか、そりゃもう、熾烈な争いだったけど。ほら、俺は人の心が読めるから楽勝だったぜ。ハヤトめ、悔し泣きしてたな」
ハヤト?
僕はとんでもない事実に我が身を硬くしました。
ハヤトとは。確か、わが師が導師になる前の名前では?
ま、まさかこの人は……!
髭ぼうぼうの人は、鳶色の目をこちらに向けて、にこにこしました。
それは不思議な、とても柔らかいまなざしでした。
「ひと仕事終えたあとの酒はうまいっ」
髭ぼうぼうの人は、空気袋に仕込んだお酒をがぶがぶ飲み。ぷはーと息を吐きました。見れば顔はみるみる真っ赤。
すっかりできあがった人は、とても上機嫌にいろんな話をしてくれました。
お酒の造り方とか。服の編み方とか。
それから、「おおそうだ」と目を輝かせて、ぽんと手を打ちました。
「そういや、導師になったその夜に、師匠にえらく祝ってもらったなぁ。師匠すっげえ喜んでくれて、酒を注いでくれたんだ。お酒解禁だって。そうそう、儀式の時に師匠から貰った名前はさ、たしか……」
僕は思わず身を乗り出していました。導師に名を与えるのは、最長老の役目です。
ということはやはりこの人は……。
「アステリオンだ。大層な名前過ぎて、恥ずかしいよなぁ。星の子って意味なんだぜ。呼ぶならえっとぉ……エリクでいいぞ。カラウカスのエリク。それが弟子の時の名前だった。ここにはだれも名前を呼んでくれる奴がいないから、つい忘れちまうなぁ。うはは」
前最長老カラウカスの弟子!
やはりこの人は、我が師の兄弟子に間違いありません!
お酒のせいでしょう、兄弟子様は饒舌に語られました。
「お師匠様は気さくな人だが、すごい韻律の使い手だった。難しい韻律もちょちょいと舌先ひとつで簡単にかけちまう。で、俺たち弟子に『ほれ、やってみ?』って言うんだよな。無理だってそんなの。スメルニアなまりの巻き舌なんて、マネできねえって。うははは」
髭ぼうぼうの人はどかりと胡坐をかいて笑いましたが。
「そんな風に鍛えられたおかげで、俺は十九で導師になれた。でもそのせいで師匠は、大変なことに……」
そう仰るなり、顔が暗く曇りました。僕は驚いて目を丸くしました。
この寺院で、十代で導師になった者は今までいないはず。公式の記録では、まだひとりも存在していません。三十代でやっとなれるのが普通。二十代でなれれば、天才であると畏れられる世界。
なのに――。
「まさか、十代でなんて!」
「やっぱ信じられないか? 長老たちも認めてくれなかったよ。俺の師匠がごり押ししたってみんなに思われちゃってさ。印象最悪。しかも師匠が俺にスメルニアの後見の座を譲ったもんだから、みんな大騒ぎだよ。十代の奴が大国の後見? ってみんな反発しちゃって。それで師匠はみんなから糾弾された。北五州の導師どもが、ここぞとばかりに攻撃してきた。毎日ありとあらゆる本気の呪いが飛んできたよ」
黒の技の大半は、おそろしい呪術です。技を極めた導師たちは、己が身を守る結界を、無意識のレベルで常に張っていますが……。
「長老どもも加担して一斉に攻撃してきたもんで、呪いを避け切れなくてさ。師匠は寝込んじまって……そのまま……。しかもあろうことか、この俺が師匠を殺したってことにされちまった」
え……そんな……!
「最長老殺しの大罪人ってことで、俺の記録は、きれいさっぱり全部消されたはずだ。はなから存在しなかったことにされてると思う」
アステリオン様はがっくりうなだれて、沈んだ声で仰いました。
「長老たちと北五州の導師どもが、口裏合わせて俺をはめたのさ。寺院の奴らは、俺が師匠を殺したんだって信じたよ。俺の弟弟子すら、そう思い込まされた。俺は底なしの泉に投げこまれた。幸い生き延びられたけど、寺院に戻るのは無理ってもんだ。だから悠々自適に、鍾乳洞で暮らすことにしたわけ。いやほんと、ここ最高よ? 魚はうまいし、あったかいし」
「最高って……」
「まあ、ずっと前から、俺たち最長老の弟子は狙われてたのさ。俺の弟弟子も、不祥事起こしたって長老たちに言いがかりつけられて、鍾乳洞に放り込まれたことがあったよ。ヘタに才能があると潰されちまうんだ」
かつてわが師が鍾乳洞をさまよったのは。長老様たちの陰謀?
僕はわが師が貸してくれた、地図入りの形見の本を思い出しました。
あ……おとぎ話! あの本の中に、湖に潜って大きな魚に追いかけられるお話があったような……たしかあの結末は、でっかいカメのような湖のヌシに助けられてめでたしめでたし……。
「僕のお師匠様は……序列最下位です」
僕は震え声で言いました。
「魔力はたぶんだれよりも強いです。でも、寺院での発言権は全くありません。本当は器用でだれよりも蹴鞠が一番上手なのに、わざと馬鹿で愚かで、何もできないふりをしています。毎日、中庭に寝転がって鼻をほじってます。講義なんか、ちっともし、してくれません……」
あ。
だめ、だ。
視界が涙でぼやけてくる。
き、きれる。
きれちゃう……理性の糸が。
きれ……
「今、分か……った。きっと、わざとそうしてるんだ」
だめだ。目から涙が落ちる。ちくしょう。
「こわい長老たちに攻撃されたくないから。身を守るためにそうしてるんだ。なのに俺……いつも文句ばかり言って……あの人のお尻叩いて……」
自分でも驚いたことに。俺はアステリオン様にすがりついた。
そして。
「お願いだ……!!」
無我夢中で叫んでいた。強力な魔力を持つ天才であるこの人に。
「エリク! ハヤトを助けて!!」




