くろがねの歌 3話 真夏の思い出
僕は寺院に帰って丸一日、共同部屋の寝台で眠りました。
無事帰還できた、という安堵から、どっと疲れに襲われたのです。
凍えるような鍾乳洞とは正反対に、盛夏の寺院はうだるような暑さ。だらだら汗を垂らしながらふと目を覚ますと、寝台の隣の小卓に雑誌があり。その下から見覚えのある印のついた封筒が見えています。メキド王家の印です。
トルからの手紙です! 我が師がこっそり置いていったのでしょう。
着替えもせず急いで中身を読むと。僕はもう嬉しくてたまらなくなりました。
『アスワド、君の警告のおかげで僕は死なずに済んだ。間一髪だったけどね。式鳥をありがとう!
バルバトス様からの贈り物が毒だというのを、僕は公衆の面前で示して見せた。大臣だけでなく、貴族たちや国民が集まる宮廷儀式の時にだ。王宮前の広場で、僕は大臣たちを脅してやった。バルバトス様はかように恐ろしい方なんだと。いつお前たちも、いきなりやられるかわからないぞと。大臣どもはみな顔を真っ青にして、僕に服従を誓ったよ』
手紙を読んでいる最中に、優等生のリンが部屋に入ってきました。
「お帰りなさいアスパシオンの。よくご無事で」
「あ、リン、ありがとう。あのさ、」
「バルバトス様が、恐ろしくご機嫌斜めです」
僕が言い出す前に。リンはヒソヒソと耳打ちしてきました。
「メキド王国が、あの方を後見役から外しました。数日前にその宣告が寺院にきて、今我が院はその話で持ちきりです」
「ここにもそう書いてあるよ」
僕は満面の笑みで手紙をリンに見せました。リンは目を丸くして、僕と一緒にその手紙を読みました。
手紙の続きには。さらに素晴らしいことが書いてありました。
『宮廷儀式を開いた時、僕の味方が、たのもしい援軍を実家から連れて来てくれた。彼女はケイドーンの巨人族のハーフだ。しかも族長の娘ですごく美人だ。ちょっとでかいけど、代々傭兵業で鍛えてきた一族だから、戦の腕は最高だ。
彼女のおかげで、巨人族が僕の腹心の騎士団として入城してきて、今もがっちり護衛してくれている。
おかげで僕は、やりたいことがやれるようになった。
さっそく大臣たちに、バルバトス様を後見から解任することを承認させたよ。
ファラディアへの出兵も取りやめさせた。
妃も娶った。相手はむろん、巨人族のハーフの彼女だ。
友よ、どうかおめでとうと言ってくれ』
ケイドーンの巨人族! それはメキド王国の向こう、深緑の山々に住む古い種族です。いとも簡単に小さな家を吹き飛ばすほどの怪力を持つ一族で、昔から傭兵業を生業としています。雇った国は、戦に負けることが無いのだとか。
「トルは目が高いですね。二つの種族を繋ぐ方を妃にするとは。まごうことなく彼は王者です」
リンがひどく感心しています。僕はうきうきと言いました。
「何かお祝いを贈らなきゃ」
するとリンは硬い表情で囁きました。
「でもアスパシオンの、このことは決して人に知られてはいけません。あなたがメキド王に警告を出したことは。もし知られたら、バルバトス様は、きっとあなたを殺します。メキドのトルはうまくやりましたが、ファラディアでは……」
「まさか、出張してるコロンバヌス様がどうかした?」
「王宮に侵入した賊に襲われて、重傷を負われました。一命はとりとめたそうですが、意識不明でずっと昏睡しておられるとのことです」
僕の笑顔が凍りつきました。
ヒアキントス様は岩の舞台で、蜂を雇ってファラディアに送り込めとバルバトス様に勧めていましたが……バルバトス様は、本当にそうなさったのです……。
「寺院の中枢では、長老のどなたかが刺客を送られたと噂しています。腹の探りあいですよ。アスパシオンの、だからあなたも慎重に行動した方がよいです」
「うん。分かってる。でも、リンだから見せたんだ」
「アスパシオンの……」
リンはびっくりした顔で僕を見つめました。
「君はひとりになった僕のことを気遣ってくれた。それに君も、トルのことを心配していたから」
僕はリンの手をぎゅっと握りました。
「ありがとう、リン。一緒にトルの勝利を祝おう」
僕とリンはトルに結婚祝いを送ろうと誓いあいました。それから僕は、慎重にトルからの手紙を枕の中に隠しました。
それからほどなく長老様七人全員が、僕の寝台にやってこられました。
偉い方々が僕の寝台を取り囲む中。最長老様が、僕が無事生還したために、脱院の罪は天の配剤によって許された、と宣言なさいました。
最長老様のそばで、バルバトス様が口を引き結んでおられます。いまにも怒鳴り出しそうな、どす黒い顔。その躯からかもし出される、暗い波動……。激しい怒りがびりびりと、僕の肌に突き刺さってきます。
なんて強い意志。なんて強い生気。
僕は一瞬で気圧されて。息もできないぐらいになりました。あわてて頭を垂れて、岩の床に視線を逃すと。最長老様が、具合が悪いのかと気遣って下さいました。
「アスパシオンの。まだ体力が戻っておらぬようだな。ゆるりと休むがいい」
「は、はい。ありがとうございます」
「ふん! 生還するとは。運のいいことだな」
突然バルバトス様はぶっきらぼうに言葉を吐きだし。ズカズカと荒い足音を立てて、部屋を出て行かれました。
僕の心臓はドキドキ高鳴りました。もしあの人に僕のしたことがばれたら……百万の呪いが降りかかってくるでしょう。恐ろしい悪霊を召喚されて、体を八つ裂きにされるかもしれません。
長老様たちが退室されたあと、僕は寝台にぐたりと伸びました。
手紙は、処分した方がいいかもしれません。証拠を失くせば、僕のしたことが発覚する心配はなくなります。でも、親友直筆の手紙を捨てるなんて……。
「トル……」
しかし……暑いです。あまりのけだるさに、僕は手紙を隠した枕を撫でながら、うとうとまどろみの中へ沈んでいきました。
遠い国の親友を思いながら。
夢の、中へ――。
寺院の中庭に照りつける太陽の光。
おいらの家来が、畑仕事をサボって手ぬぐいを頭からかぶって座り込んでる。おいらの隣にべったりと。
「あついってハヤト」
「うん。暑い」
「だるいってばハヤト」
「うん。だるい」
「おまえ、ちょっと、はなれろよ」
「え。なんで」
「べたべた暑苦しいんだよ。おいら、ただでさえ毛むくじゃらで暑いのに」
おいらは後ろ足で家来をどんとおしのけた。
こいつ、いつもすぐにひっついてくるんだよな。わきゅわきゅ手を動かして、もふもふしたいとか、わけわからんこと言ってくる。もっと兄弟子のエリクを見習えよ。真面目に勉強しろっての。
「ハヤト、ちゃんと畑仕事しろよ。当番だろ」
「うええ、つかれたぁ。あついしさぁ」
「仕方ねえな。じゃあ、ニンジンカキ氷作ってこい。たしかに暑くてかなわねー」
おいらが命じると、家来はへいっ! と敬礼して、蒼い衣をひるがえし、調理場に駆けてった。
……よし。邪魔者は消えた。今の隙に、家畜小屋へレッツゴーだ。
今日こそコクる! コクって、一気にプロポーズまでいく!
結納は家来に作らせてるニンジン百本で決まりだ。足りなかったら、もっと作らせようっと。
いとしのリリアナちゃん。おいらの愛を受け止めてくれ――!
「ペペ! ニンジンカキ氷作ってきたぞー。ペペ? ぺぺー? ……ちょ、おまえ、どうした?!」
「ハヤト……」
血相を変えた家来が、中庭の茂みに行き倒れてるおいらのところに駆けて来る。
おいらは……長い耳をだらんと前に垂らして息も絶え絶えだ。
「ね、熱でも出たのか? ぺぺ!」
熱? あるかもな。もう、おいら悲しくて悲しくてたまらないよ。
抱き上げてくれた家来の胸に、おいらは頭をこすりつけた。
「ハヤトぉ……どうして? どうして、ウサギは……」
「な、なに?」
「どうしてウサギは、牛と結婚できないんだよおぉお!」
「は……あ? ちょ……まさかおまえ……牛のリリアナが好きなのか?!」
「うわああああああん!」
おいらはおいおい泣き出した。
白黒まだらの美しい彼女に言われた言葉が、おいらの脳裏によみがえる――。
『んモー冗談がお上手ねペペさん。アタシ、ニンジンは大好きだけどモー、とってモーすてきな結婚モーしこみだったけどモー、でモー、ウサギさんとは、結婚できないモー。それにアタシ、モー素敵な牛さんと、結婚してるモー』
いとしのリリアナ。おいらはそれでも。一生おまえを……。
「……なに今の……夢?」
寝床から起き上がり。僕は頭をぶるぶる振りました。
自分が黒髪の男の子に抱き上げられて。なんだかわあわあ泣いていたような気がするのですが。
夢の情景は、大きなあくびと一緒に、頭の中から消え去ってしまいました。
しかしさすが盛夏。寝床がぐっしょり汗だらけです。
「弟子、おはよ」
すぐそばに、黒き衣の導師がひとり、立っています。
我が師です。暑さしのぎに衣の袖と裾をまくって紐で結んでいます。腕はともかく足を見せるのはやめてほしいです。いい年したおじさんのスネ毛なんて、ちょっと見たくありません。
「暑いだろ? 涼しくなるもん持ってきてやったぞ」
我が師は真っ白いものがこんもり盛られている器を両手に持っています。その白い物のてっぺんには、毒々しいオレンジ色の液体が……。
「あの……なんですかそれ?」
「何って、おまえの大好きなニンジンカキ氷じゃん。今日はすんげえ暑いから、特別に作ってきてやったの」
「ニンジン……?」
ニンジンは嫌いではありませんが。カキ氷のシロップにするなんて見たことも聞いたことも……。
「ほら口開けろ。食べさせてやるから」
「い、いいです。ど、どうせなら牛乳カキ氷の方が……」
スプーンを差し出す我が師から後ずさりながらつぶやくと。我が師はひどく悲しげに目を伏せました。
「弟子、牛乳は無理だ。牛のリリアナが昨日ついに参っちまってさ」
「えっ……」
「一番たくさん乳を出す奴がいなくなったもんで、寺院名物の自家製チーズが作れねえってみんながっくりしてる。って、弟子? おいこら待て! まだ起きるなって! 弟子!」
気づけば僕は家畜小屋の前にいて。声をあげて泣いていました。
この小屋の中には、ヤギと牛がそれぞれ三頭ずついるはずなのですが、牛の姿が一頭、見当たりません。
リリアナがいません。白と黒のまだらでつぶらな瞳。とてもやさしい気性の彼女が……。
小屋の中にいるもう二頭の牛も、ヤギたちも、みんな耳を垂らしてさびしそうな顔をしています。
特につがいだった牡牛のスタインは、見るからに意気消沈しています。
家畜の世話は、僕の大好きな当番。餌をやったり体をブラシでこすってやったりするのが、僕は大好きです。
特にリリアナはとても気立てがよくて、一番僕になついていたのです……。
泣いている僕のところに我が師がやって来て。導師たちはみな、リリアナの功労に感謝しているゆえ、ちゃんと荼毘に付して葬送の礼をすることに決めたと教えてくれました。
食肉にされないと聞いて、僕は安堵しました。寺院ではそもそも肉を食べることはありません。肉を食すると魔力が落ちると信じられているからです。でも肉は街で高く売れます。
導師様たちが牛を功労者とみなしてくれたことに、僕は感謝しました。
しかし、なぜか涙が止まりません……。
我が師は、泣きじゃくる僕の頭をぐりぐりと撫でました。
「一緒に見送ろうな、弟子」
「うわああああああん!」
僕は師の胸に頭をこすりつけました。しかしどうしてこんなに涙が出てくるのか、わけが分かりませんでした。
その日の夕刻、夕餉の後で、乳牛のリリアナは湖の岸辺で荼毘に付されて、その灰を湖にまかれました。
それはこの寺院に住まう者たちと、全く同じ弔いのされ方でした。
長老様たちによって、ケーナという楽器が奏でられました。この竹製の管が連なる楽器は、正式な儀式の時に使うもの。とてもきれいな、そして物悲しい音が出ます。
僕はその楽の音を聴きながら、また涙をこぼしました。
どうしてこんなに涙が出るのか分からないながらも。涙をぽろぽろ、こぼしました。
それから一週間後。
僕はリンとこっそり湖の岸辺で待ち合わせて。式鳥に小さな包みを託して飛ばしました。
宛先はメキド王国王宮、トルナート国王。包みの中身は、メディキウム様特製の、万が一のための万能解毒薬。そして、プラチナのコマ。
僕らは、二人の連名の手紙が、包みを引っさげてはばたくのを見送りました。
一度師匠が飛ばした時に韻律を覚えたので、僕はひとりで手紙を飛ばすことができました。
「トルが解毒薬を使うことにならないといいね」
「ええ。そう思います」
「彼からの手紙は、処分しましたか?」
「それは……ま、まだだけど」
口ごもる僕に。リンはきっぱり言いました。
「早く焼き捨てなさい、アスパシオンの」
「う、うん」
やはり処分しないとだめか……覚悟を決めて寺院の中に戻ると。
僕は師匠に手招きされて呼ばれました。
「弟子! ちょっと弟子、手伝って!」
「なんですか?」
師は僕の腕を引っ張って自室へ向かい。外出の準備をしてくれと命じました。
「ええっ? また寺院を出るですって?」
「弟子はまだ病み上がりなのにすまないなぁ」
我が師が申し訳なさそうに頭を掻きました。
向こう岸の街に行って牛を買い付けてこいと、最長老様に命じられたそうです。
「ま、一ヶ月経つから、用事言いつけられんのは、これで最後だな」
「え?」
「いやその、行き先はまた向こう岸の街だし。牛買うだけだからさ」
我が師は僕の肩にとんと手を置きました。
「だから弟子、今度は、ちゃんとお留守番するんだぞ? 追いかけてくるなよ? また鍾乳洞に舞い戻りたくないだろ?」
「は、はい」
「すぐ戻るからさ。大丈夫、心配すんな」
僕はこの前のように我が師の髪を整えてやり。黒い外套を羽織らせて。最長老様の名代の杖を持たせました。師はすぐに、漁師メセフの船に乗ってでかけました。
僕の脱院に協力したメセフは、鞭打ち十回の刑罰で済んだそうで、前と変わらず寺院のために漁をしてくれています。
船を見送り、僕は我が師の帰りを待ちました。
でも。次の日。
メセフの船は、半分焼けた状態で寺院にやって来ました。
我が師を乗せずに。
そしてメセフは、船の異様な様子に驚いて集まった導師や弟子たちに向かって叫びました。
「大変です! 街に軍隊が……! 兵士がたくさんやって来て! 戦になってます! 街が……街が、焼かれてます!」