くろがねの歌 2話 形見の本
盛夏だというのに。今、僕の躯はひどく凍えています。がちがちと歯が鳴るぐらいに。
周囲はまっ暗闇。手を伸ばして探ってみれば、ぬるぬると湿った岩の壁。
たぶんここは、氷点下でしょう。四六時中体を動かしていないと、手足の先の感覚が無くなってしまいます。
僕は手探りでそろそろと前に進みました。
じゃぶじゃぶと、足元で水音がします。足首まですっかり浸かるぐらいの深さで、氷のように冷たい水が流れています。
耳を澄ませば、遠くでごうごうと水が流れ落ちる音がします。すぐ近くの周囲からは、ピチョンピチョンと水の滴る音が絶えずしています。
「あっ……いたっ!」
足を入れたところが思ったより深く、しかもつるつるで。僕はずるりと足を滑らせました。
尻もちをついたので、尾てい骨にかなりダメージが。
「痛い……痛いよちくしょう……」
下半身がびしょぬれです。胸に抱いている一冊の本は……何とか無事。
僕はよろよろと立ち上がり、震えながら手探りでまた歩き始めました。
この迷路のような鍾乳洞の、出口を探して。
一週間前のこと。僕はなかなか帰ってこない我が師の身の上を案じすぎたあまり、メセフの船でこっそり湖のむこうの街まで行ってしまいました。
我が師が遺物から出た悪魔と戦って、危機に陥っていると勘違いしてしまったからです。
でもなんと我が師は、幻燈を見ていただけ。
脱力した僕は次の日の早朝、メセフの船にまた乗せてもらって、こっそり寺院へ帰ったのですが……
魔道の技に長けた最長老さまの「目」は、ふし穴ではありませんでした。
寺院の船着場にこそこそ降り立った僕の前には、寺院の中へ戻るのを阻むものが待っていました。
そう、恐ろしい形相で仁王立ちの最長老様と、長老様たちが。
実は僕ら弟子たちの胸にはすべからく、聖なる印が刻まれています。これは戒律と貞操を守るためのもので、むやみやたらに他の人とべたべたすると、灼熱のごとき熱を帯びます。
その印は、最長老さまが手ずから僕らに埋め込みます。そしてどうやらその印が湖の結界を越えると、たちどころに結界破りの気配として感じられるようです。
街に上陸した時、僕は無我夢中でまったく気づかなかったのですが。印を刻まれた胸は、炎のように燃えていたらしく、蒼き衣の胸の部分はぶすぶすと半分焦げてしまっていました。
最長老様はその焦げた僕の胸を指さして。罪悪感と恐怖で固まった僕に、とても怖い声で仰いました。
「なんということをしたのだ。脱院は、死罪に値する罪なのだぞ!」
僕はすぐに、寺院の地下の独房に収監されました。
我が師が幻燈を見終えて帰ってくるまでそこに入れられて。パンと水だけ細々と与えられました。
街から帰ってきた我が師は、真っ青な半泣き顔で面会しにきてくれました。
「ごめん……俺のせいで、ごめん!」
いえ……これは僕の勘違いですから。そう言ってなだめましたが、我が師は独房の前でおいおいと泣き続けておられました。
きっと我が師は、助命嘆願してくれたのでしょう。
長老様方は、僕の脱院が「師を思っての行為」であることを認めてくれました。
幸い、手首と舌を切り落とされて底なしの泉に沈められる極刑は免れましたが。僕は、二番目にきつい罰を受けることになりました。
すなわち。寺院の地下に広がる鍾乳洞に放り込まれる罰です。
生還すれば、神が罪を許したものとして元の生活に戻れます。
できずに力尽きれて倒れれば……僕はきっと、鍾乳洞に棲む魚の餌になることでしょう。
「弟子! これをもってけ! 絶対落とすなよ。弟子、死ぬなよ! 弟子ー!」
長老様たちによって鍾乳洞に連れて行かれる寸前。我が師は僕に一冊の本を押しつけて、見送ってくださいました。
パンでも水でもなく。りっぱな装丁の、韻律集。
どうしてこんなものを我が師が? 本嫌いのはずなのに。
首をかしげながら、僕はその本を抱きしめました。
落ちた時に、落とさないように。
寺院の地下に広がる鍾乳洞。
自給自足の寺院では、ここから取れる鉱物を生活や韻律の行使に役立てています。
冬場のカイロに使う発火石や、魔力を増幅させるヘロム鉱石。薬になるコケ。そんなものが鍾乳洞から採れます。
といっても、導師と弟子たちが採掘するところは、鍾乳洞のほんの入り口付近。鍾乳洞は広大すぎて、知恵ある導師の手によっても、その全容がほとんど解明されていません。
僕は、「すべり穴」と呼ばれる暗い穴に放り込まれました。
落とされると、ずんずん下へ滑り降り、いくつも穴が開いているところへ至りました。
どこの穴に落ちるのか。鍾乳洞のどの部分に出されるのか。それは神のみぞ知る。
穴に落ちた僕は滝の近くに運ばれたようでした。どうどうという轟音が絶えず遠くから響いています。
ここがどこなのか。寺院とどのぐらい離れているか。全く不明です。
寺院がある方向も……。
僕は途方にくれながら、我が師に渡された本を開きました。
『ルチアス!』
真っ暗闇なので、手のひらから光を出す韻律を使用。
お腹が減っていてあまり光量が出ませんでしたが、なんとか見えます。
「え……これ全部手書き?」
冒頭にある署名に、僕は驚きました。
『我が弟子のために――カラウカス』
カラウカス!
前最長老、我が師の師匠の名前じゃないですか。
ページの紙はかなり古く、茶色に変色しており。全くの初歩の韻律がいくつか書いてあります。とても堅苦しい字です。
光出しの韻律。物を浮かせる韻律。かんたんな結界を張る韻律……
韻律のあとには、同じカラウカス様のと思われる字で、びっしりとお話のようなものが書かれていました。その題名は。
『ある弟子と、使い魔ペペの大冒険』――。
「な……に、これ……」
『昔々、ある寺院にとってもえらい魔法使いがおりました。
魔法使いには、かわいい弟子がひとりおりました。
でもその子は実家で飼っていたウサギが恋しくて、こんな薄暗い寺院はいやだと毎日泣いていました。
こまった魔法使いは、使い魔のウサギの世話を弟子にたのむことにしました。
弟子は喜んで、ウサギの世話をし始めました。
二人はすぐにとても仲良しになり。そしていろんな冒険をすることになったのです……』
僕は驚きながらページをめくりました。
一ページに一話ずつ、弟子とウサギのお話が書き連ねてあります。
弟子と使い魔ウサギは星空を飛んで精霊にでくわしたり、湖の中に潜って大きな魚に追われたり。
またある日は、ふたりで焼き芋を焼いたり、不思議な花を見つけたり……。
そしてそんなひとつひとつの冒険の終わりには。
「今日はここまで。よい夢を」
と必ず書かれていました。
お話は、二十個ほどもありました。
弟子の名前はどこにも書いてありませんが。絶対、この弟子というのは我が師がモデルに違いありません。
「これまさか……お師匠さま……夜寝る前に、師匠に読んでもらってたとか?」
これは、我が師にとってとてもとても大事なものでは……。
こんな貴重な宝物を、なぜ僕に? なぜ今?
不思議に思って、本の後ろの方をめくってみると……
「な、なにこれ?! ち……ち……!」
まごうことなくそこには。地図らしきものが書かれていました。
鉄筆でびっしりと。
この鍾乳洞の、地図が。
僕は息を呑んで、その地図を食い入るように見つめました。
それは本の後ろの余白のページに、何ページにも渡って、鉄筆でびっしりと書きこんであります。
とても細かいものです。「滝」。「草地」。「中州」。「塩の洞窟」。場所を記す文字も、丸みを帯びていてとても奇麗。カラウカス様の堅苦しい字とは全然違います。
その地図を汚すように、詩のような変な文章がところどころ、書きなぐってありました。
『滝の近くにゃ魚がいる どれでも食える おいしいな』
『鍾乳洞のヌシにあったらば ともかくにげろ とっととにげろ』
『猫もどきは獰猛だ 爪で引っ掻く 目を守れ』
「す、すっごい汚い字。ちっちゃい子供が書いたみたいだ」
地図の字と、その汚い書きなぐりの字はまるで全然違いました。これは別人がそれぞれ書いたものでしょう。
「えっと……地図によると……滝の近くには、草地があるのか」
この地図には滝がひとつしか記されていません。
僕は滝の音がするところまで戻りました。
ほどなく狭い洞窟が広い洞穴となり。大きな空洞となり。ものすごい量の水がなだれ落ちる空間に出ました。
「滝だ……!」
僕はほっとしました。滝の周囲にたくさんある洞窟の配置は、地図の通りです。
僕は目を皿のようにして、寺院の場所はどこかと地図を見ました。ずいぶん遠そうです……。
しかも迷路のように入り組んでいる洞窟の、たった一本しか通じていません。
滝まで来た距離と時間を考えると、飲まず食わずで一気に寺院へ帰るのは無理のようです。
お腹がひどくぺこぺこです。これは、魚を獲ってしのがなければならないでしょう。
しかし、この地図を描いた人はすごいです。
こんなぐちゃぐちゃに入り組んでいる洞窟を、しっかり細部まで書き記すなんて……。
僕はぱらぱらと、何ページにも渡る地図を眺めました。地図を汚すように書きなぐられている汚い字がところどころにあり、いやおうなく目に入ってきます。
詩のようにも見えますが、なんて汚い字なのでしょう。地図を描いた人と違って、これを書きなぐった人は、とても頭が悪そうです。
『にんじんなんて どこにもない! お魚しか ありゃしない!』
『わがままいうな! きっともどれる! いつの日か!』
『ひと月たった? いやおれたちは 二ヶ月たっても大丈夫!』
『ゆうれいがいる。今日も影をみた。いちもくさんに、にげてみた!』
「あ……」
最後のページを見て、僕は固まりました。
そこには、かわいいウサギの絵が描いてありました。このウサギの落書き、確かどこかで……。
しかも大きな、汚い字で――
『ぶじ生還ー! ペペといっしょで助かったぁ♪ 地図書いてくれてありがとペペ♪』
「お……お師匠さま? お師匠さまなのっ? お師匠さまっ……」
なぜか、涙が……出てきました。
ここにこんなことが書いてあるということは。かつて我が師も、僕と同じ罰を受けたのでしょうか?
しかも使い魔のペペと一緒に?
そして、ペペがこの地図を書いたというのでしょうか?
ウサギが、地図を?!
信じられません……。
でもともかく、戻らなくては。
僕は涙を拭きながら、本を抱きしめました。
戻らなくては。絶対戻らなくては。
お師匠さまに、この大事な本を返さなくては……!
僕は洞窟の中州で、魚を生け捕りにしました。
自分が魔力のある導師見習いで本当によかったと思いました。
魚の動きを鈍くさせて、らくらくと魚を獲ることができたし、滝の横穴を抜けた「草地」で草を発火させて、焼いて食べることができたからです。
ひとまず腹をふくらませた僕は、遠出の準備をしました。
地図が示す「塩の洞窟」へ行き。白い塩の結晶を掻きとって、獲った魚にまぶして塩漬けにしました。これで長時間、魚を保存できます。
魚を入れる入れ物は、「草地」に生える草を編んで、なんとか作ることができました。
地図に書きなぐられたわが師の汚い字も、結構役に立つことが分かりました。魚が獲れる場所など特に助かりました。
ヌシというのは、そのあたりの水だまりに潜む、巨大な顎とウロコを持つ魚のことでした。たしかにこいつはとても獰猛でした。
しかし幽霊というのは、その正体がよく分かりませんでした。
目撃したという場所は二箇所ほど。そのどちらの洞窟にも行ってみましたが、これといったものには全く出会いませんでした。
数日かけて、だいぶ食糧がたまったころ。僕は地図をたよりに、寺院へ戻る道を進み始めました。
たった一本か細くつながっている、寺院への道をめざして――。
――「弟子、もう少しで寺院に着くからな」
あ……れ……? 僕、誰かに背負われて……る?
「二週間、よくがんばったな。俺のときは二ヶ月かかったけど。やっぱ地図あると違うよなあ」
ええと……確か僕は、寺院に通じるたった一本の道をひたすら進んで。進んで。進んで……。
でも途中で道が、すっかり崩れて行き止まりになっていて……。
もうダメだと思って、泣きじゃくっていたら……。
「ごめんな。俺のせいで大変な思いさせて」
あ。そうだ……道を塞いでる岩が、目の前で木っ端微塵に砕けて……。
岩の向こうに、お師匠さまが……。
探しに……来てくれたんだこの人……僕のこと、心配して……。
「地図、役に立ったみたいだな」
僕はこくりと、我が師の背の上でうなずきました。
「感謝しなくていいぞ」
我が師は、ポツリと仰いました。
「お前が書いたんだからな。ペペ。ほんとあの時は助かったよ。おまえがとっさに俺のふところにとびこんできてくれて。しかもこの本と鉄筆と一緒にさ。さすが万能使い魔だよなー」
我が師は、小脇に抱えた本をぎゅうと肘で抱きしめました。
この人は。一体どんなことをして、かつて僕と同じ罰を受けたのでしょう?
いや、それより……。
僕は、我が師の首をぎゅうと抱きしめました。
「やだ……ペペじゃない……僕、ぺぺじゃない……」
我が師は前を指さして、なだめるような口調で言いました。
「わかったわかった。ほらペペ、寺院に通じる木戸が見えてきたぞ。あ、そうだ。あのな、赤毛のトルからおまえにまた手紙が来てる。聞こえてるか?」
「トル……トルから?」
「うん。だからほら、元気出せ。メキドはどえらいことになったようだぞ。バルバトスが目を剥いてバタバタしてる」
「トル……トル、無事?」
「無事もなにもあいつ、どどーんとやらかしたみたいだ。それに、隅に置けないなぁ。あ、お前への手紙、中身読んじゃったけどいいよな」
「えっ……」
「だって状況が状況だったし。だからお前の名前で返事書いちゃった♪ 結婚おめでとうって」
おめでとうって……書いちゃったって……もう、また、勝手なこと……。
「バカ……大きらいだ……ハヤトなんか」
「え。今なんて? おまえ今……なんて?」
我が師は一瞬身を固めて聞き返してきましたが。
僕は、もう答えられませんでした。
とても疲れ果てて。意識が、ぱっと飛び散っていきました。
まっ白い世界の中へ――。




