風編みの歌 8話 土台
先週は、とてもひどい目に遭いました。
寺院に住む半数以上の者が魚にあたってしまって大騒ぎ。メディキウム様が連日特効薬を作りまくって治療に大わらわ。弟子のリンも痛むお腹を抱えながら、忙しく立ち働いていました。
幸い僕らのお腹はその薬のおかげで数日で全快。寺院の秩序はすぐに元に戻り、いつもの厳格な雰囲気を取り戻しました。
が。
夏のきつい日ざしはまだまだ、この北の辺境に容赦なく降り注いでいます。
今日もうだるような暑さの中。
僕は午後の週当番の仕事を終えて、大食堂へ行きました。
今週の午後当番は家畜の世話。中庭にあるトリ小屋で卵を採ったり、臭いヤギの糞を片付けたり。ヤギの乳を搾ったり。
とても暑いです。汗がだらだらです……。
そろそろ、屋内の仕事がしたいもの。
でも来週の当番は、繕い物だったような。それは僕の一番苦手な分野。
針に糸を通すところからして、悪戦苦闘。だから我が師の衣をつくろうのって、実は結構な拷問だったり。
ああ、苦手といえば。来週、試験なんです。
今度のは神聖語の試験ではなく、問答です。
もっぱら哲学や倫理学、宗教学など、学問全般について根掘り葉掘り訊かれます。
試験官は七人の長老様のどなたかで。最悪の場合、厳しくてこの上なく博識な最長老様に当たることもありえます。
当たったら最後、あきらめるしかないかもしれません。
一番訊かれやすいのは、なんといってもカイヤールの倫理学。
この哲学者は博学な古代人で、天についてとか、元素についてとか、音楽論とかいろんな文物を著しているのですが、一番有名なものが倫理学です。
これを知らなきゃ導師になれぬといわれるので、みんな必死で覚えます。
ええ、理解するのではありません。
理解は一生不可能なぐらい、内容がおそろしく難しいので丸暗記です。
で。その倫理学の本。どの導師様もたしなみで全巻揃えてらっしゃるのがごくごく普通、つまり本棚の標準装備なのですが。
「カイヤールぅ? なんだっけそれ。えっ? モノじゃない? 人なの?」
部屋に本を一冊も置いていない我が師には、ハイクオリティどころか別次元の物体でした。
「誰か他の導師から借りれば? 試験の時、俺もそうしたし」
「え? お師匠さまのお師匠様って、前の最長老様でしょう?」
「俺の師匠も本大嫌いだったけど、なにか?」
「……」
いやそれ。ありえないから。仮にも最長老って位についてた方が。本嫌いとか、ましてやカイヤール持ってないとか、ありえないから。
象に鼻がついてないぐらい、蝶々に羽ついてないぐらい、ありえないから。
この人、絶対嘘ついてますね。
というか。かつて導師試験の時、本借りたんですね、お師匠さま!
「うんまあな。ヤマ張ってさ、めぼしいやつを友人からとか、図書館からとか借りたわけよ。そうだな、図書室にあった本の方が役に立ったかもなあ」
ですよねえ。本や参考書を全然読まないで導師になるなんて、不可能です。
普段は読み書きもおぼつかなげな我が師ですが、やる時はやるのですね。
「図書室のは、一般書で小さくて隠しやすいんだよな」
……。
はい?
今、僕、なんか聞き間違えしたような。
……隠す?
「易しく書いてあっから、薄っぺらくて軽いしさあ。お腹に入れても全然目立たないからいいぞ。五冊とか余裕。『大陸おもしろ雑学集』とかマジおすすめ。あれ超面白いしいいぞ~。絶対借りとけよ『大陸おもしろ雑学集』。大事なことだから、二度言ってやったからなー」
ちょ……お師匠様、それ……。
「そんでな、ミラー張るのよ。投影鏡。だって問答試験って、試験官と向かい合わせでくっちゃべるだろ? だから鏡つくって、相手には、真面目な顔でおめめぱちくりで座ってる自分を映して見せててさ。その鏡を盾にぺらぺら必死に本めくるわけ」
ち、ちょっと……! なんで、カンニングするんですかっ!
「え。だって、覚えるのめんどくさいじゃないか」
ていうか。なんで『投影鏡』なんて超高等な韻律、弟子の分際で唱えられるんですか?
なんて器用で大胆なことするんでしょう、この人は。
しかも全然ばれないとかちょっと信じられません。
我が師の魔力がべらぼうに高いのは把握してましたが。弟子の時代に、そんな長老レベルの韻律を悪用するとか、ほんと勘弁してほしいです。
僕には絶対無理ってやつです。って、何でそんなもの蒼き衣の弟子の分際で知ってたんですか?
「なんでって、そりゃあお師匠さまが」
まさか教えたんですか? ど偉い最長老様が? カンニングの仕方を?!
「いやだから、投影鏡のやり方をさ。教えてくれたのよ。ある晩、目の前でやられて、簡単だろ? とか言われて、ほれやってみ? やってみ? って」
「……」
やってみ? て言われても、普通やれないと思うんですけど。
「俺、一発でできちゃったぞ? 超簡単だから、おまえもやってみ? えっと、投影鏡の韻律は、六韻律でさー」
いやだから、やってみ? って……。
カンニングを奨める師匠がどこにいるんですか! 恥を知りなさい!
「ざっと百行ぐらいあるけど、規則性あるから、一度聞いたら覚えられ……あれ? 弟子? 弟子どこ? おーい、弟子ー!」
我が師は全くあてになりませんので。僕は優等生のリンに相談しました。
トルがいない今、リンは僕と一番よく話す友人になりました。このごろはひとりで食事する僕を気遣って、一緒に食べてくれたりもします。
「カイヤールの初版本は写本版にはない章があるのですって。だから初版本はとても貴重なのです。たしかバルバトス様とアキネリウス様が揃えてらして、ことあるごとに自慢なさってます」
そういえば、全巻の価値、五十金とか言ってました。お披露目の儀式の時、僕をほしがった誰か……そう、アキネリウス様が。
五十金って、広い農場十箇所ぐらい買い占められるぐらいです。昔、僕の親の地主さんが、農場五金もするから買い取りたいけどちょっと無理、とかぼやいていましたっけ。
せっかくだから、バルバトス様に初版本を借りてみようかな。黒髭の御方はトルの師。トルとずっと仲が良かった僕とは、浅からぬ縁がないこともないですから。トルがいたころは、結構話しかけてもらったことがあります。我が師があんな感じでサボり魔だから、時々、トルと一緒に講義を聞かせてもらったり、ていうこともありました。ほんの、二、三回だけど。
というわけで、僕はバルバトス様にかけあってみました。
「カイヤールか。いいぞ。ただし手袋をはめて読んでくれ。そして試験が終わったらすぐ返すこと。私の弟子たちも常に読んでいるからな」
「ありがとうございます!」
黒髭の御方は快諾してくださり、カイヤール以外にも僕がリクエストした本を全部貸してくださいました。さすがは長老様、太っ腹です。
カイヤールの倫理学全15巻とラステイネスの形而上学と、レリウスの年代記。
ラステイネスはカイヤールに次ぐ人気の天文学者だし、もし歴史学の研究をなさってる長老メシオドスさまが試験官だったら、絶対スメルニア大戦役のことを聞かれるはず。ここはしっかり、おさえておかねば。
僕はそれからその三作を一心不乱に読み込みました。
倫理学はさすがに理解しがたい難解なものでしたが、それでもなんとか概要をつかみ。重要そうなところは丸暗記。形而上学も年代記もばっちり暗記です。
よし、これで勝負をかける――!
そして問答試験当日。僕の目の前に座ったのは。
「えっと……よろしく、お願いします」
「うむ。私が貸した本は全部読んだのかね」
「はい!」
「それはえらいな」
試験官は、何の因果か、長老バルバトス様でした……。
バルバトス様はにっこりなさり。さっそく問答を始めました。
「紅獅子は砂漠に生息するが、黄金牛の生息地は、如何に?」
「……」
「人間の血管をすべてつなげた長さは如何ほどか?」
「……」
「果物のアボカドの語源とは如何に?」
「……」
「大陸三大景勝地とは、如何に?」
「……」
「大陸七不思議のうち、三つをあげてみせよ」
「……」
バルバトス様は固まる僕の頭をぽんぽんと叩き。
「アスパシオンの。頭でっかちはいかん」
そうおっしゃって、僕にうすっぺらい本を一冊渡しました。その本には、図書館のシールがついています。
題名は、『大陸おもしろ雑学集』……。
「土台をちゃんと組んでから、上モノを建てないとな。君は、まず土台をしっかり作らないと。
カイヤールは、それからだ」
『大陸おもしろ雑学集』。その本のページをめくると、いきなり黄金牛の絵と説明が。それから人体の不思議という項目や、大陸の三大景勝地や、七不思議が紹介されています。
裏表紙の裏には、鉄筆でかわいいウサギの落書きが。幼い子供が書いたような下手うまな絵です。
ウサギ? ウサギといえば我が師……って、あ。
おもしろ雑学……そういえば、この本は――!
『絶対借りとけよ『大陸おもしろ雑学集』。大事なことだから、二度言ってやったからなー』
うああああああ!
「師に何を読めばいいか教えられなかったようだが、」
いえ……教えられました……。
「今度からは、師に出題範囲を聞いてみるといいぞ。アスパシオンは、かつて試験のヤマを見事に当てていたからな。まあ、視えるんだろうな。予知ってやつだ」
「……」
机にずぶずぶ沈んでいく僕を見て。バルバトス様は、からからと朗らかにお笑いになられました。
愛嬌のある、黒髭のお顔で。
次の日の夕方。僕はお借りした本を返しに、バルバトス様の部屋を訪れました。
岩をくりぬいた寺院の部屋はとても狭いのですが、長老のものとなれば別格。バルバトス様の部屋には続き部屋がふたつもあり。ひとつは寝室。もうひとつは書庫になっています。
カイヤールを何とか暗記したというのに、問答試験は当然不合格。また三ヵ月後に再試験です。今度は一般書も読み込まないと……。
「あれ? お留守かな……」
夕餉の後ですから、確実にいらっしゃると思ったのですが。黒髭の方はご不在のよう。
僕は衣の袂から鉄筆と羊皮紙の欠片を出し、お礼の言葉を書きつけて、本の山と一緒に書庫にあるテーブルの上に置きました。
「うわ。なんか落ちた」
どっそりと本を置いた時、卓上に山と積まれた書類やら書簡やらを押しやってしまったようです。慌てて紙切れを拾い上げましたが、卓上は雑然としすぎいます。せっかくだからお礼の気持ちをこめて本を書庫にしまっていこうかと、視線を書棚へ。
カイヤール全集の場所は十五冊ぶん空きがあるところ……ああ、そこか。岩をくりぬいて作られた書棚の右端。
僕は一冊ずつ本を入れていきました。しかし大判なので、背表紙がういてしまいます。もっと奥に入らないかと、ぐいと本を押し込むと。ごとり、となにかが奥に押されて――
「え?!」
いきなりがばりと、目の前が開けました。
なにこれ。まずい。隠し金庫……みたいなもの? 小さなドーム型の空間がある。そこにあるのは、山と積まれた封書。
これはたぶん……み、密書。どうしよう。まずい。これ、どうやって閉じれば?
「あれ……この封書?」
うろたえる我が目に、とある封書の文字が目に飛び込んできました。
『アスパシオンの弟子 アスワドへ』
僕はおそるおそるその封書に手を伸ばしました。それは間違いなく僕宛の手紙。
差出人は……トルナート・ビアンチェリ。メキドの王になった、あの赤毛のトルから。でも、僕が貰った手紙とは、署名の形が全然違います。この少し尖った字はまさしく……
「トルの直筆じゃないですか」
胸がドキドキと不自然に鳴ります。震える手で、周りの手紙も確かめてみました。それはなんと、半分以上が僕宛のものでした。他のものは優等生のリンや、他の仲良しだった子や、兄弟子たちに宛てたもの。そして。すべて開封済み……。
バルバトス様が手紙を止めている?
なぜ? どうして? なぜ手紙を、みんなに渡さない?
まさか、トルの手紙の内容は……。
僕は僕宛のもので一番新しい日付のものを一通だけ袂にしまいこみ、それからなんとか隠し金庫を閉じました。上の段にある本を押しこめばよいことがなんとかわかって、幸いでした。
本棚をいじったことがばれないように、借りた本はやはり卓の上に積み上げなおしました。それでも……気づかれるかもしれません。
でも。いくら長老であり師である人の判断だからといって、トルからの手紙を見ないで放っておくなんて、できませんでした。
僕は急いで、しかし足音を極力立てないように共同部屋へ戻り、寝床に飛び込んでかけ布をかぶりました。暑い夜のこと、じわっと汗が噴き出すのも構わずに手紙を開けて広げてみます。手のひらに魔法の光をともして、淡い光を出しながら。
「トル……ああ……やっぱり」
嫌な予感は的中しました。
ほのかな明かりに浮かび上がった文字。
トルは手紙の中で、いつも僕の顔を思い出す、と書いていました。
それから今は、籠の鳥だと。自分は城に閉じ込められたただのお飾り。周りの大臣たちがみんな勝手に決めていくと……。
『君からの手紙はまだ一度も来ない。でもアスワド、君はボクを忘れていないと信じている』
ぐっと手紙を握りしめ、ボクは唇を噛みしめました。
僕の手紙が届いてない? 何度も書いて出したのに。この前トルからようやく来た代筆の手紙にも、ちゃんと返事を書いたのに。バルバトス様に、ちゃんとお願いしたのに?
手紙を止めたのは。そしてあの一行だけのにせの手紙を書いたのは。黒髭のバルバトス様? あんなに愛嬌のある笑みを浮かべる方が、なぜそんなことを? 寺院にいる僕らがトルの近況を知ったら心配するから?
わからない……わからない……。
トルは、悲鳴をあげていました。
彼自身が書いた本当の手紙の中で、哀しげに訴えていました。
『アスワド、随分愚痴ってしまってごめん。でも僕は、僕なりにがんばるよ。だから、君もがんばって』
……助けてくれ、と。