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君に捧ぐ

作者: 林 りょう




 平日の真昼間だった。仕事に煮詰まり、気分転換に外をぶらついていた時のこと。

 無駄に長い信号に引っかかり、舌打ち混じりで突っ立っていた俺の背中へ、あの頃と変わらない声が降ってきた。


(しゅん)ちゃん? やっぱり、俊ちゃんだ」


 かつて聞き慣れていた自信の無さそうな響きは、今日に関しては本当に人違いを懸念していたのだろう。振り返ればもう一度、今度は聞き慣れないはっきりとしたものに変わって繰り返される。


「…………千恵(ちえ)?」


 逆に俺の方が尻すぼみになってしまう。それぐらい、昔の女はとんでもなく変貌していた。

 まだ夢が叶っていない頃の話だ。俺は彼女と出会い、人生で最も苦しい時期を共に過ごした。

 きっかけはありふれた友人の紹介で、グループで何度も遊んでいる内に気が付けば友情が恋情へと成長し、軽い気持ちで交際を始めた。

 全てを包みこんでくれるような柔らかい雰囲気がとても居心地良く、口うるさくも束縛してくることもないどちらかといえば内向的な性格で、貧乏なせいで誕生日もクリスマスも、記念日にだって贈り物一つ買ってやれなかった俺を笑って許してくれる、そんな優しい女だった。

 それどころか、ろくに飯も食えない俺を見兼ねて家へと招き、そのまま居座ることを許容してくれた、そんな――女性(ひと)

 なにより、馬鹿みたいに夢を追い続ける俺の最初のファンとして、常に応援し続けてくれた。

 逆に俺は、あり得ないほど馬鹿で間抜けで、それが当然だといつの間にか感じてしまい、いざ才能を認められて状況が一変するとこれまでの感謝をすっかりと忘れてしまう。

 それでも千恵は微笑んでくれていた。仕事だと嘘を吐いて夜な夜な遊び歩く俺に対して、仕方がないねと帰りを待ってくれていた。

 だというのに、俺は言ってしまう。


『お前もう要らないわ』


 原因は、煙草を吸うようになった俺を気遣い、身体に悪いと言ったというただそれだけだった。

 ただそれだけが、あの頃の俺は無性に腹立たしく、まるで物を捨てるかのように酷い言葉を吐いたのだ。

 それでも千恵は笑っていた。笑って、荷物をまとめて去る俺の背中へ一言呟いた。


『そっか』


 俺が最低なのは火を見るよりも明らかだったというのに、罵ることも戸惑うこともなく。それがさらに苛立ちを募らせ、月日が経てば経つほどにしこりとなって残り続けた。

 どれだけ女に言い寄られても、彼女を作っても。例えば家で一人の時間を過ごしていると、仕事中にふとボーっとすると、千恵が隣に居たときの空気を思い出す。

 最近は特にそうだった。その理由が、こうして再会しはっきりと分かった。

 俺をまた助けに来てくれたのだろう。千恵はそういう女なのだから。


「変わらないね。元気だった?」

「あぁ、お前は変わったな」


 ただし、今度は俺の背中を撫でて慰め、支えてくれるのではなく、押す形で。

 千恵は子供みたいな小さな両手で、真新しいベビーカーを押していた。左手の薬指には、良く似合うシルバーの指輪が光っている。

 下げた視線の先では、親によく似て愛らしい天使のような子が眠っており、その姿を見つめる瞳は母親でしかない。

 俺の知らない千恵がそこには居た。弱いとしか、守りたいと想っていたかつての彼女は、俺より何倍も強くなって立っていた。


「結婚したんだな」

「うん。俊ちゃんはお仕事大変でしょう? すごい人気だもんね」

「まあ……な」


 でなければ、こうして声を掛けるなんてできないだろう。昔と変わらない笑みを向けてくれるはずがない。

 なんてったって俺は、自分勝手にお前を捨てた最低な男なのだから。

 変わらないと言われたことに、今さらながら後悔が押し寄せる。さらにどうしようもないのが、今になって悔しくなったことだ。

 なぜ今の千恵の隣に立っているのが俺ではないのか。こんなにも良い女だというのに、昔の俺はなぜ気付けなかったのか。


「おめでとう。子供も、おめでとう。可愛いな」


 だから、これは虚勢。

 それでも千恵は、一瞬だけ驚きで目を丸くし、次には花が綻ぶように頬を染めてはにかんだ。


「ありがとう。すごく、すっごく嬉しい」


 さらには、昔の男が相手だというのにその名残をまったく感じさせず、寝ている子供を抱き上げると差し出してくる。

 それは過去だからだろう。時間が過ぎ去っただけの俺とは違い、そこであった事の全てを受け入れたからこそ出来る行動だと思う。その上で、未だに俺を信用してくれているのだ。


「いいのか?」

「もちろん。むしろ私がお願いしたいの。抱っこしてあげて」


 そっと腕に乗せられた温もりは、グズることなくぐっすりと眠ったまま。

 俺と自分の子供の姿を眺める千恵の瞳には、僅かにだが間違いなく涙が浮かんでいた。


「…………小さいな」

「でしょう? 爪なんかほら、こんなに小さいの」

「まじだ。すっげーな」

「うん、すごいよ。こんなに小さくて、何にも出来無いはずなのに、もう私の方が色んなものを貰ってるの」

「お前、昔っから頼りないもんな」

「あ、ひどーい。これでもお母さんを頑張ってるんだよ」


 嘘。その通りだ。この期に及んで見栄を張る俺の方がよっぽど頼りない。昔のまんま。

 それに気付きながら子供を返す。その時、ゆるやかな風が俺たちの間を流れた。

 かすかに触れ合った手は、もはや繋がることがない。

 それを実感してしまい、なんとはなしに空を仰ぐ。でないと、何かが零れてしまいそうな気がした。


「俊ちゃん」

「ん? どうした?」


 目を合わせないまま返事をすれば、千恵もまた自然体で言う。

 あの頃と変わらない響きで、長い間俺を支えてくれていた言葉を。


「これからも応援してるね」

「……ああ。俺のファン第一号は、ずっとお前のだから」

「そっか」

「うん」

「ありがとう。じゃあ、またね」


 どんな表情を浮かべていたのかは、見ていないから分からない。

 やっと顔を戻せた時にはもう、千恵の小柄な身体は背中を向いていた。

 その隣りを自分が歩く幻想を見る。不釣合いだなと独り言ちる。


「千恵――――!」


 そして叫んだ。

 振り向いた拍子に舞う髪に触れる手は、もう俺のものじゃない。もっとずっと良い男が、俺とは違って飽きるほどに想いを告げてやって欲しいと願う。

 そんなことを俺ごときが祈らずとも、きっと大丈夫だろうけど。なぜなら、変わらない昔の男を変えてくれる最高の女は、そいつのおかげでこんなにも綺麗になったのだから。


「なあに? 俊ちゃん」

「ありがとな!」


 出会ってくれて。傍に居てくれて。見放すどころか最後の最後まで、こんなろくでなしを――愛してくれて。

 昔も、今も、これからも。ずっとずっと、俺はお前のことを忘れない。思い出すたび、悔しさや恥ずかしさ、そしてたくさんの勇気を与えてくれるだろう。

 だから、きっと二度とない〝また〟の分も含めて、今さらなごめんの代わりに言わせて欲しい。ありがとう、と。

 いつか、できることならば、お前が愛してくれたおかげで存在する俺のことを愛してくれる誰かと出会えればと思う。そして、今度こそは間違うことも悲しませることもなく、言葉も行動もなにもかもを出し惜しみせず、俺にできるありったけで想いを伝えると誓わせてくれ。身勝手な男の、最後の勝手として。どうかお前に。

 そうなれるよう、これから良い男になるよ。お前に変わったなと言ってもらえるような、格好良い奴に。


「どういたしまして!」


 そうして、俺の過去は未来を腕に抱きながら去って行った。

 俺もまた歩き出す。何度も変わっていたであろう信号は、丁度タイミング良く青となっていた。










 テーマは『忘れてはいけない相手』でしょうか。

 思うに、そういう人がいるのって、すごい素敵で幸せなことのような気がします。

 というわけで、お粗末さまでした!



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