10-4:進路希望、記入済み
10-4:進路希望、記入済み
秋の終わりが近づいたある日、恒一は職員室前の提出ボックスの前に立っていた。
手には、進路希望調査票。
あの春の日、教室で白紙のまま見つめていた紙とは、同じ形式の、けれど別の意味を持った一枚だった。
表には、自分の字がある。
大学名。
学部。
志望理由として書いた短い言葉。
どれも完璧ではない。
何度も消して書き直した跡がうっすら残っている。
自信に満ちた筆跡でもない。
それでも、それはたしかに自分で書いたものだった。
あのときの白紙を、恒一はまだ覚えている。
四月の教室。
散りかけた桜。
新学期の落ち着かないざわめき。
神谷が配った一枚の紙。
第一志望。
第二志望。
希望学部・学科。
将来の希望。
そこに並ぶ言葉を見た瞬間、自分の中が真っ白になった。
何を書いても嘘になる気がして、何一つ選べなかった。
自由に選べると言われるほど、自分の中の空白だけが目立っていった。
誰かが決めてくれたら、と思った。
でも、誰かに決められるのは嫌だった。
自由になりたいのに、自由になるのが怖かった。
あの紙の前で、ただ立ち尽くしていた自分を思い出す。
今も、未来のすべてが見えているわけではない。
この選択が絶対に正しいと証明できるわけでもない。
何年後かに振り返って、迷いや後悔が一つもないとは言えないかもしれない。
もしかしたら途中で違うと思う日が来るかもしれない。
書いた言葉に、自分のほうが追いつけなくなる日もあるかもしれない。
それでも、この一枚は以前とは違う。
これは完璧な未来ではない。
自信に満ちた決断でもない。
誰かに見せるための正解でもない。
ただ、自分で引き受けると決めた最初の一行だった。
恒一は小さく息を吸って、紙を提出ボックスへ入れた。
紙が中へ滑り落ちる。
それだけのことだった。
音もほとんどしない。
誰かが拍手するわけでもない。
神谷がその場で何かを言うわけでもない。
廊下の空気はいつも通りで、職員室の中からは教師たちの話し声や電話の音が聞こえている。
何かが劇的に変わるわけではない。
教室に戻れば、授業は続く。
友人たちは同じように話しているだろう。
旬は少し軽口を叩き、凛は誰かの話に笑い、綾人は静かにノートを開く。
紬は窓の外を見て、透は何かを皮肉っぽく言い、朔は変わらない顔でそこにいるかもしれない。
母との関係も、学校の空気も、社会の仕組みも、そのままそこにある。
進路を一枚出しただけで、急に自由になれるわけでもない。
檻は消えていない。
期待も、不安も、責任も、これからもきっとある。
これで終わりではない。
むしろ、ここからまた迷いが始まるのだろう。
それでも確かに、恒一は白紙の場所から一歩外へ出ていた。
決めることの怖さは消えていない。
自由になるのが、やっぱり少し怖い。
でもその怖さを抱えたままでも、人は選び始めることができる。
そしてたぶん、そうやってしか自由には近づけないのだ。
恒一は提出ボックスから手を離し、廊下の窓の向こうを見た。
薄い光の中で、校庭の端の木々が静かに揺れている。
春には薄い花を残していた桜の木も、今は葉を落とし始めていた。
枝の隙間から見える空は高く、少し冷たい色をしている。
季節は、また少し進んでいた。
怖かった。
今も少し怖い。
それでも、自分で選び始めた。
その事実だけを胸に抱えたまま、恒一は職員室前の廊下をゆっくり歩き出した。
廊下の先には、いつもの教室がある。
見えない檻のある場所。
でも同時に、それぞれが不完全なまま、自分の足元を確かめ始めた場所でもある。
恒一は歩きながら、自分の手を見た。
さっきまで紙を持っていた指先には、まだ少しだけ力が残っている。
その感覚を確かめるように、ゆっくりと手を開く。
もう白紙は持っていない。
けれど、何もかもが決まったわけでもない。
ただ、最初の一行を書いた。
ただ、提出した。
ただ、自分の選択を自分の手から離した。
それだけだった。
けれど今の恒一にとっては、それで十分だった。
それが、この物語の終わりだった。
そして同時に、彼の人生がようやく少しだけ、自分の足で始まり直す場所でもあった。




