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鐘離に会う

沈玉谷、遺瓏埠。


この地の風景は璃月港の賑やかな喧騒とはまるで異なる。湿った水気を含んだ空気には、茶の清らかな香りと古く趣き深い風情が漂っている。軒反りの建物は山と水に寄り添い幾重にも連なり、碧玉のように穏やかな湖面を小舟がゆっくりと渡り、水鳥を驚かせて輪を描く波紋を残していく。心和ませるはずの景色なのに、ここを行く一行の空気は嵐の前の海面のように重く沈んでいた。


旅人・空は固く握り締めた拳の指関節が力のため白く浮き、胸は激しく上下している。いつも穏やかで揺るぎない光を宿す金色の瞳は、今や怒りの炎を燃やし、今にも溢れ出さんばかりだ。彼の視線は、少し先の茶屋の縁側に悠然と立ち欄干から遠くを眺める人影に、釘付けになっていた。


その男は茶褐色の長衣をまとい、孤岩のように姿は凛として肩幅は広く、衣の裾は風になびいている。墨色の長い髪は後ろで一本の三つ編みに束ねられ、毛先は金箔のような艶をたたえる。ただ静かに佇むだけで、遺瓏埠の山水や古建築と溶け合い、永遠に変わらぬ風景の一部となっていた。往生堂の客卿、鍾離である。


空の呼吸は急に荒くなり、脳裏に地獄のような光景が否応なく蘇る——天まで届く炎、かつて栄えた市街地は瓦礫と化し、民衆の絶望的な叫びと兵士の悍ましい哄笑が入り混じる。そして滅亡と死を象徴する三つの旗、豊臣、武田、織田……自ら命を懸けて守り、数多の思い出と温情を託した璃月港は、神の加護を失った末、野心家の蹄の下で焦土と化した。すべての元凶は、目の前の男が「手を放した」ことにある、空はそう信じていた。


「鍾離——!」


苦しみと怒り、戸惑いを込めた咆哮が、遺瓏埠の静寂を打ち砕いた。空は荒れ狂う若獅子の如く、身の周りに強烈な風元素の力を噴き立たせ、金色の光の流れとなって、我を忘れてその背中に突進していく。脳裏に浮かぶのはただ一つの思い——捕らえ、問い詰め、そして……自らが味わったすべてを失う痛みを、彼にも味あわせてやる、と。


だが、その突進は鍾離に寸分も届かなかった。


紫と蒼の二つの人影が、まるで予期していたかのように素早く、毅然と空の前に立ち塞がった。


「あらあら、旅人さん、そうカッカしてはいけませんわ」鳴神大社の宮司である八重神子は、相変わらず怠惰の中に狡知を含んだ口調で語る。細い指を軽く挙げると、指先に淡い紫の雷光が漂い、攻撃的な気配はないものの、しなやかな結界を張り、空の突進の勢いを巧みに和らげた。笑意を宿す狐の瞳を細めて空を眺め、「ほら、整った顔立ちも怒りで歪んでしまって。話し合えば済むことを、いきなり手を出すのは紳士らしくありませんわ」


ほぼ同時に、雲菫も空のもう片側を遮った。雲翰社の看板役者である彼女は舞台の華やかな衣装を脱いでいるが、眉間には変わらぬ強さと真剣さが宿っている。両手を差し出し、元素力を一切使わず、身と眼差しだけで空を止めようとする。「旅人さん、冷静になってください!」澄んで切実な声には、揺るぎない誠実さが込められている。「この地は並々ならぬ場所ですし、鍾離先生も凡庸な人ではありません。無闇に手を出すのは賢明な選択ではありません!」


「冷静になれ? どうやって冷静になればいい!」二人に阻まれて足を踏ん張り止まった空は、瞳の怒りが実体を持たんばかりだ。振り返って、背後の騒ぎに気づかぬように佇む鍾離を指し、興奮のあまり声は震えている。「あなた達は彼が何をしたか知っているのか?! 彼は璃月を見捨てた! 璃月港の幾千もの民を見捨てた! 『契約』の終焉を語り、璃月を人の統治に委ねると言いながら、結果はどうだ? 無辜の人々を豊臣、武田、織田の三軍の刃の下で死なせただけだ! 血は川となり、生きとし生けるものは塗り炭となった! これが彼の望んだ『人の統治』なのか?!」


その言葉は血を泣くようで、一語一語が廃墟で目の当たりにした惨状と、友を失った悲しみに浸っている。突然の侵攻は悪夢のように璃月港の平和と繁栄を打ち砕いた。そして空にとって、このすべては避けられたはずだった——偉大な契約の神、モラクスが今なお璃月を見守っていさえすれば。


辛炎は少し後ろに立ち、愛する楽器を抱えて眉を顰めている。空の怒りは理解できる。理不尽な災厄に直面した時の無力さと憤りは、彼女のロック精神の根幹である反抗心と通じるものがある。だが衝動では事は解決しない。口を開きかけたが最終的には声を上げず、力強い眼差しで空を支えつつ、周囲の気配を警戒していた。


八重神子はそっとため息をついた。いつもの冗談めかした雰囲気は薄れ、捉えにくい複雑な思いが滲んでいる。一歩前に出て空に近づき、傷ついた小獣を慰めるように柔らかな声で語る。「小さな子、あなたの気持ちは多少なりとも理解できる。大切なものが壊され、信じた人が傍観しているように見えるのは、確かに辛いものですわ」一瞬間を置き、動じぬ鍾離の背中に視線を流し、「だが物事は表面の通りではない。特に神の選択ともなれば……あなたが『見捨てた』と思うその裏には、もっと深い理由が隠されているのかもしれない。怒りに目を曇らせ、他の可能性を見逃してはいけません」


雲菫もすぐに続け、清水のような声で空の心の炎を鎮めようとする。「旅人さん、どれほどの惨事が起きたか詳しくは知りませんが、璃月港の異変に私たちも胸を痛め、心から嘆いています。だが責め立てや暴力では亡くなった人は生き返らず、本当の解決にもなりません。鍾離先生は千年にわたり璃月を守り続け、その功績と尽力は璃月の大地が証明しています。彼がこの決断を下したのには、凡人の私たちには今は理解できぬ深い意味があるはずです。まず……彼の言い分を聞いてみませんか?」


空は激しく喘ぎ、仲間たちの諫言は冷たい水のように突進の衝動を抑えはしたが、心の炎を消すことはできない。鍾離の背中を睨みつけ、歯を食いしばり、怒りと無念の涙が瞳にたゆたう。無惨に命を落とした人々の顔、絶望の叫びが悪夢のように彼に纏わりつく。


「なぜ……」嗄れた声に鼻づまりの響きが混じり、絶望的な訴えのようだ。「なぜ彼らを見捨てた? あなたは璃月の守護神ではないのか? あなたは……モラクスではないのか?! 答えてくれ!」


空の声が落ちた瞬間、磐石のように佇んでいた人影がついに微かに動いた。


鍾離がゆっくりと振り返る。


その容貌は変わらず端正で、人を超えた完璧さと幾多の歳月を沈めた穏やかさを宿している。溶岩のような金色の瞳は古井戸の如く深く、興奮し悲しむ空の姿を映しながらも、少しの波立ちもない。視線は空の前に立つ八重神子と雲菫を静かになで、最終的に旅人・空の顔に落ち着いた。


漂う茶の香りは一層濃くなり、周囲のざわめきはこの瞬間完全に静止したかのようだ。


鍾離はすぐに空の問いに答えず、ただ穏やかに見つめ返す。その眼差しには侮辱された憤りも、罪の意識もなく、大きな悲しみで理性を失った後輩を見守る長者のような趣きだ。


長い沈黙の末、空が再び怒りを爆発させようとする寸前、鍾離がついに口を開いた。玉石が軽く触れるような重厚で響きのある声は、焦りを鎮める不思議な力を持ちながら、揺るぎない威厳を秘めている。


「旅人、貴方の怒り、受け取った。」


「だが『見捨てた』『捨て去った』という言葉は……少し言い過ぎだ。」


ゆっくりと語る口調は、まるで己に関わらぬ事実を述べるようだが、その平静の下には更に複雑で激しい流れが潜んでいるように思える。まぶたを少し上げ、璃月港の方角を眺め、幾重の山と水を隔てた先、自らが千年守り続けた土地と、そこに降りかかる苦難を見通しているかのようだ。


「璃月港の現状については、既に承知している。だがこれは『人の統治』が始まるにあたり、避けて通れぬ痛みと試練に過ぎぬ。」


「その理由、そして貴方の問う『なぜ』については……」


鍾離の視線は再び空に戻り、魂を吸い込まんばかりの深さをたたえる。


「まず怒りを鎮め、一つの……『契約』と『未来』を巡る物語を、聞いてはくれぬか?」


言葉が落ちた瞬間、空はもちろん、八重神子の瞳にも悟りと面白さが過り、雲菫は思い巡らすように俯き、辛炎は思わず息を呑んだ。遺瓏埠の風もまた、遠くの戦火と身近な謎を運び、神の選択と人の命運を巡る巨大な渦に、全員を巻き込んでいくのだった。

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