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第五話:変装の少女と試される賢者

王国騎士団隊長ヴァレリウスが店を訪れてから、半月が過ぎた。

あれ以来、エルリックの日常に大きな変化はなかった。相変わらず店は閑古鳥が鳴く時間の方が長く、彼はその静けさを満喫していた。ヴァレリウスが置いていった法外な助言料は、丁重に手紙を添えて騎士団の詰所に送り返した。もちろん、受け取ってもらえたかは分からない。


ただ、小さな変化はあった。例の冒険者が仲間を連れてきて、ダンジョンで拾った用途不明の道具の鑑定を依頼してきたり、オルゴールを預けた老婆が全快したオルゴールを手に、満面の笑みでお礼の焼き菓子を持ってきてくれたりした。


エルリックの名は、まだオークヘイブンのごく一部で、「ちょっと不思議な力を持つ、親切な骨董品屋の兄ちゃん」として、ささやかに知られる程度だった。彼にとって、それは望外の評価であり、心地よいものだった。


その日、店には珍しく朝から雨が降っていた。

しとしとと窓を打つ雨音は、読書にふけるには最高のBGMだ。エルリックが温かいハーブティーを片手に、エーテルガルド覇権帝国時代の陶磁器に関する専門書を読みふけっていた時、ドアベルが澄んだ音色を響かせた。


入ってきたのは、フードの付いた上質な旅装マントをまとった一人の少女だった。年の頃はエルリックと同じか、少し下くらいだろうか。フードを目深にかぶっているため表情は窺えないが、その立ち姿や仕草の端々に、育ちの良さが感じられた。


そして何より、エルリックは彼女が店に入ってきた瞬間、ふわりと漂う微かな気配を感じ取っていた。それは呪いや怨念とは違う、もっと繊細で、しかし抗いがたい「痛み」の気配。まるで、生命力が少しずつ、ゆっくりと漏れ出しているかのような、儚い印象だった。


「……いらっしゃいませ」

エルリックは本から顔を上げ、静かに声をかけた。

少女は少し驚いたように肩を揺らし、ゆっくりとカウンターに近づいてきた。フードの影から覗く唇は、血の気が引いて少し青白い。


「あの……こちらでは、古い装飾品の鑑定も、していただけるのでしょうか」

鈴を転がすような、美しい声だった。しかし、その声には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。


「ええ、もちろん。どのような品物でしょう」

エルリックが促すと、少女はためらうように懐から小さな布包みを取り出し、カウンターの上に置いた。中から現れたのは、銀細工の美しいブローチだった。小鳥をかたどった繊細なデザインで、目には小さな青い宝石が嵌め込まれている。


「旅の途中で手に入れたのですが……これを身に着けていると、どうにも気分が優れなくて。少し、見ていただけますか」

少女はそう説明したが、エルリックには彼女の言葉が、慎重に選ばれたものであることが分かった。彼女はこのブローチを試し、自分を値踏みしようとしている。まるで、腕利きの医者を試す、重病の患者のように。


(また、何か厄介事でなければいいんだけど……)

エルリックは内心でため息をつきつつも、プロの鑑定士として、目の前の依頼に集中することにした。彼は少女に一礼し、ブローチにそっと指を触れた。


【呪物鑑定】――。


流れ込んできたのは、暴力的な感情ではなかった。

それは、ひどく粘着質で、冷たい『嫉妬』の感情。


――王都の夜会。華やかなドレスをまとった令嬢。その胸元で輝く、このブローチ。

――しかし、周囲の人間が彼女に向けるのは、羨望だけではない。陰で囁かれる、心無い噂話。妬み、嫉妬、嘲笑。

『あの方ばかり、なぜ……』

――ブローチを贈った男は、別の令嬢に想いを寄せていた。彼は当てつけのために、このブローチを彼女に贈ったのだ。その製作を命じられた彫金師は、報われぬ恋に苦しむ男の想いと、贈られる令嬢への嫉妬を、この銀に練り込んでしまった。


このブローチは、身に着けた者に、他者の悪意を過敏に感じさせる。友人たちの何気ない視線すら、嘲笑のように思えてくる。仲間たちの輪の中にいても、常に自分だけが孤立しているような、底なしの孤独感に苛まれるのだ。

これは、心を静かに蝕んでいく、陰湿な呪いだった。


「……なるほど」

エルリックは感応から意識を引き戻し、静かに目を開けた。

彼は、目の前の少女を真っ直ぐに見つめて言った。


「これは、人を孤独にするブローチですね」


その言葉に、少女の肩が再び、今度ははっきりと震えた。フードの奥の瞳が、驚きに見開かれるのが分かった。


エルリックは続ける。

「身体に直接害をなすものではありません。ですが、これを着けていると、まるで世界中の人間が、自分のことを嘲笑しているかのように感じてしまう。人の輪の中にいる時ほど、耐えがたい孤独に襲われる。……違いますか?」


「…………」

少女は息を呑み、言葉を失っていた。彼女が何人もの鑑定士や神官に見せても、誰もが「魔力反応なし」「呪いの気配は認められず」と首を振るばかりだったのだ。彼女自身、自分の精神が弱っているだけなのかもしれないと、諦めかけていた。


だが、目の前の青年は、まるでこのブローチを着けていたことがあるかのように、その呪いの本質を、的確に言い当ててみせた。


エルリックは、さらに核心に触れる。

「このブローチは、強い嫉妬の念を込めて作られています。おそらく、贈り主は、あなたではない別の方に想いを寄せていたのでしょう。これは、いわば当てつけの贈り物。その歪んだ感情が、呪いの中核となっています」


「そこまで……分かるのですか……」

少女のかすれた声は、もはや驚愕を通り越し、畏怖の色を帯びていた。


ヴァレリウス隊長が語っていた『賢者』の噂は、決して大げさなものではなかった。この人ならば、あるいは。その確信が、少女の中に強い光となって灯った。


彼女は、ゆっくりと、震える手でフードを下ろした。


その瞬間、エルリックは思わず息を呑んだ。

フードの下から現れたのは、陽光を編み込んだかのような美しい金髪と、夜空の星を閉じ込めたかのような紺碧の瞳。そして、聖画から抜け出してきたかのように、清らかで気品に満ちた顔立ちだった。その顔を、エルリックは知っていた。王国の貨幣にも描かれている、この国の誰もが知る顔。


太陽神の現人神にして、民の信仰を一身に集める、慈悲の象徴。


「聖女……リアーナ様……?」

愕然とするエルリックに、少女――リアーナは、力なく、しかし必死の願いを込めた眼差しで頷いた。

「……いかにも。私が、リアーナです」


聖女の顔色は、先ほどよりもさらに青白く見えた。彼女の立つ足元から、エルリックが最初に感じ取った、あの生命力が漏れ出すような痛みの気配が、より一層強くなっている。


彼女は、もはや試すような素振りは見せなかった。ただ、一人の助けを求める少女として、目の前の青年に全てを託すように、深く頭を下げた。


「賢者エルリック殿。どうか、私のこの命を……救ってはいただけませんか」


その言葉は、静かな雨音にかき消されそうなほど、か弱く、そして切実だった。

エルリックの平穏な日常が、終わりを告げようとしていた。

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