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第二話:辺境の町と最初の客

王都を追われてから、十日が過ぎた。

乗り合いの幌馬車に揺られ、エルリックがたどり着いたのは、地図の端にようやくその名が記されるような辺境の町、オークヘイブンだった。


王都の喧騒が嘘のような、静かで穏やかな場所だった。石畳の道は古びてところどころ苔むしており、家々の屋根からは柔らかな煙が立ち上っている。背後には雄大な森が広がり、澄んだ空気は土と草いきれの匂いを運んできた。ギルドでの息詰まるような日々と比べれば、全てがエルリックの疲れた心を癒していくようだった。


「ここなら……静かに暮らせるかもしれない」


なけなしの貯金をはたいて、彼は町の中心から少し外れた通りにある、一軒の空き家を買い取った。かつては小さな仕立て屋だったというその店は、長いこと打ち捨てられていたのか、窓ガラスは埃に曇り、看板の文字も掠れて読めない有様だった。


しかし、エルリックは不思議とこの古びた店が気に入った。二階にはささやかな居住スペースもあり、一人で暮らすには十分すぎるほどだ。彼はまず、丸一日かけて店の中を隅々まで掃除することから始めた。


床を磨き、壁の煤を払い、窓ガラスを丁寧に拭き上げる。陽の光が差し込むようになると、店内はまるで息を吹き返したかのように、温かな木のぬくもりを取り戻した。彼はギルドから持ち出した数少ない私物――古美術に関する専門書や、手入れの行き届いた鑑定道具――を、作り付けの棚にそっと並べていく。


まだ商品は一つもない、がらんどうの店だ。だが、そこは紛れもなく、彼自身の城だった。誰にも邪魔されず、自分の好きなものだけに囲まれて過ごせる空間。それだけで、エルリックの心は満たされた。


彼は店の入り口に、真新しい木の看板を掲げた。


『エルリック骨董品店』


ただ、それだけを記した簡素な看板だ。この看板が、客でごった返すような未来を、彼は全く想像していなかった。ただ、古くて、少し曰く付きの品々を預かり、その物語に耳を傾けながら、のんびりと生きていければそれでいい。


開店して三日間、客は一人も来なかった。

エルリックはそのことを気にも留めず、書物を読んだり、店の周りの薬草を摘んでハーブティーを入れたりして、望んでいた通りの穏やかな時間を過ごしていた。王都での日々が、遠い昔の悪夢のように感じられた。


四日目の昼下がり、店のドアベルが「カラン」と乾いた音を立てた。

初めての来客だった。


入ってきたのは、腰の曲がった老婆だった。深く刻まれた皺の一つ一つが、彼女の生きてきた年月を物語っている。彼女は不安げに店内を見回し、カウンターで本を読んでいたエルリックを見つけると、おずおずと近づいてきた。


「あの……こちらでは、古い品物の引き取りを、しておられると聞いて」

「ええ、いらっしゃいませ。どのような品物でしょうか」


エルリックは穏やかに微笑みかけ、立ち上がって彼女を迎えた。老婆は少し安堵したように息をつくと、大切そうに抱えていた布包みを、ゆっくりとカウンターの上に置いた。


包みの中から現れたのは、螺鈿細工が施された、古風で美しいオルゴールだった。しかし、エルリックがそれを目にした瞬間、彼の眉がわずかに顰められる。


美しい見た目とは裏腹に、オルゴールからは、ひどく冷たく、そして物悲しい気配が漂っていた。まるで、凍える冬の夜風にずっと晒されているかのような、寂寥感。


「これは、母の形見でしてね。ですが……」

老婆は言い淀み、悲しげに瞳を伏せた。

「このオルゴールを鳴らすと、どうにも胸が締め付けられるような、悲しい気持ちになるんです。しまいには、夜も眠れなくなってしまって。いっそ手放してしまおうかと思ったんですが、母の唯一の形見ですし、どうしたものかと……」


他の鑑定士なら、気のせいや、ただの感傷だと片付けてしまっただろう。だが、エルリックには分かった。これは単なる感傷ではない。このオルゴールには、間違いなく何らかの「記憶」が宿っている。


彼は老婆に許可を得て、そっとオルゴールに指を触れた。

【呪物鑑定】を発動する。


途端に、エルリックの脳裏に、断片的な映像と感情が流れ込んできた。


――雪の降る夜。窓の外を見つめる、若い女性の姿。

――テーブルの上には、一通の手紙。『戦地で行方不明』の冷たい文字。

――彼女の指が、オルゴールのネジを巻く。流れるのは、恋人と初めて踊った夜会の、思い出の曲。

『お願い……帰ってきて……』

――しかし、待ち人は帰らない。来る日も来る日も、彼女は一人、このオルゴールを聴き続けた。希望は次第に諦めへ、そして深い絶望へと変わっていく。その悲嘆と孤独の念が、何十年という歳月をかけて、このオルゴールに染み付いてしまったのだ。


「……なるほど」

エルリックは静かに目を開けた。流れ込んできた感情の奔流に少しだけ目眩を覚えたが、すぐに落ち着きを取り戻す。


「奥様。このオルゴールは、元の持ち主だったお母様の、深い悲しみを記憶しています。恋人を待ち続けた、そのお気持ちを……。これは呪いというより、あまりに強すぎる想いの残滓なのです」


彼の言葉に、老婆ははっと目を見開いた。

「母の……想い……。そういえば、母は父と結ばれる前、想いを寄せていた方がいたと、昔、聞いたことがあります。その方は、若くして遠い国の戦争で……」


「このオルゴールは、その方を想うお母様の涙を、ずっと記憶してきたのです。あなたが悲しくなったのは、お母様の悲しみに、無意識のうちに触れてしまっていたからでしょう」


エルリックはそう言うと、店の奥から小さな白木の箱と、乾燥させた安らぎのハーブを数種類持ってきた。

彼はオルゴールを丁寧に磨き上げると、ハーブを敷き詰めた箱の中にそっと収めた。


「これは『呪い』ではありませんから、魔法で解くようなものではありません。ただ、少しだけ休ませてあげる必要があるのです。この箱に入れて、月の光がよく当たる窓辺に一週間ほど置いてあげてください。そして、できれば時々、お母様の楽しかった思い出を、語りかけてあげてください」


それは、鑑定士の仕事というよりは、むしろセラピストや医者のような処方だった。


「悲しい記憶で満たされたこの子に、今度はあなたが、温かい記憶を上書きしてあげるのです。そうすれば、きっとこの子も、穏やかな音色を取り戻してくれるはずです」


老婆は、エルリックの言葉をじっと聞いていたが、やがてその目に涙を浮かべ、深く、深く頭を下げた。

「ありがとうございます……ありがとうございます、若い方。誰も分かってくれなかったこの苦しみを、あなたは……。まるで、母の心と話してくださったようです」


エルリックは恐縮しながら、わずかな手数料だけを受け取った。老婆は何度も礼を言いながら、大切な宝物を抱えるようにして、オルゴールの入った箱を手に店を去っていった。


一人になった店内に、静寂が戻る。

エルリックは、ふぅ、と長い息を吐いた。ギルドで行っていた鑑定とは全く違う。金にも名声にもならない。だが、胸のうちには、確かな満足感が温かく灯っていた。


忘れられた想いを掬い上げ、あるべき場所へと還してあげる。

それこそが、彼が本当にやりたかったことなのだ。


窓の外では、陽が傾き始め、オークヘイブンの町を茜色に染めていた。

エルリックは温かいハーブティーを淹れ、カウンターに座ってゆっくりと口に運ぶ。


(こういうので、いいんだ。こういうのが、いい)


王都での屈辱も、ギデオンの顔も、今はもう遠い。

この辺境の町で、彼はようやく、自分のための人生を歩み始めた。


その静かな日常が、やがて王国全体を揺るがす大きな出来事へと繋がっていくことなど、今の彼は知る由もなかった。

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