第十話:賢者の研究と騎士の警護
王都から禁書が運び込まれて、一週間が過ぎた。
エルリックの骨董品店は、その外見とは裏腹に、王国で最も奇妙で、そして最も厳重に警護された場所となっていた。もちろん、その事実を知るのは、店の外に潜む者たちと、リアーナだけである。エルリック本人は、可能な限りその現実から目を背け、平穏な日常にしがみつこうと必死だった。
昼間の店は、相変わらずのどかな時間が流れていた。
「店主さん、うちの裏庭にある古い井戸なんだが、水を汲むたびに悲しい声が聞こえるって、妻が怖がっていてね」
村の農夫が、困り果てた顔で相談に訪れる。
エルリックが鑑定してみると、その井戸はかつて村が干ばつに見舞われた際、最後まで枯れずに村人たちの命を繋いだ「希望の井戸」だったことが分かった。悲しい声だと思われていたのは、当時の村人たちの、水を分け与えてくれた井戸への感謝と、苦しい日々を乗り越えた安堵の念が、風の音と共に反響して聞こえるだけだった。
エルリックがその物語を農夫に伝えると、彼は目に涙を浮かべて喜び、後日、採れたての野菜を山のように店に届けてくれた。
エルリックは、こうした人々のささやかな歴史に触れる時間に、心からの喜びを感じていた。これこそが、彼が望んだスローライフそのものだった。
だが、夜の帳が下りると、彼はもう一人の自分にならなければならなかった。
店の地下室は、今や古代帝国の謎に満ちた、秘密の研究室と化している。壁際に積まれた禁書の山と、中央の大きな作業机。ランプの灯りの下で、エルリックと「リア」は、毎夜、解読困難な古文書との格闘を続けていた。
「この術式、現代の魔法体系とは根本的に構造が違う……。まるで、パズルのピースが一つも合わないみたいだ」
「この文献によると、帝国後期の魔導士たちは、エーテル、つまり生命力そのものを、鉱物のように扱っていたらしいわ。私たちの知る『魔法』とは、もはや別の学問ね」
研究は困難を極めた。古文書の多くは、帝国独自の暗号や、失われた言語で記されていた。しかし、二人にはそれぞれの強みがあった。エルリックは、遺物鑑定で培った直感と、マイナーな古代言語に関する深い知識で、文章の核心を読み解いていく。リアーナは、聖女としての高度な教育で得た、公式の歴史や神学の知識と照らし合わせ、情報の真偽を判断し、文脈を整理する。
彼らは、いつしか、互いの欠点を補い合う、最高の研究パートナーとなっていた。
疲れると、リアーナが王都から持ってきた高級な茶葉でお茶を淹れ、エルリックは村で分けてもらった焼き菓子を振る舞う。そんな束の間の休息の時間に、リアーナはぽつりと呟いた。
「……不思議ね。こんな、埃っぽい地下室で、夜を徹して難しい本を読むなんて、王都にいた頃は考えられなかった。でも、少しも苦じゃない。むしろ……楽しいくらい」
「僕もです。ギルドにいた頃は、こんな風に純粋な探究心で遺物と向き合うことなんて、許されませんでしたから」
聖女と追放された鑑定士は、その奇妙な共犯関係の中で、生まれて初めて、身分や立場を気にすることのない、対等な友人としての絆を育んでいた。
その頃、店の外の森の中。
ヴァレリウスが配置した王国騎士団の精鋭たちが、双眼鏡を片手に、息を殺して「賢者の庵」を監視していた。
「……報告。賢者様、午後三時より、店の裏庭にてトマトの手入れを開始。その集中力、まるで剣の型を千回繰り返すかのごとき精神統一と見受けられる。おそらくは、何らかの瞑想の一環であろう」
「……報告。パン屋の少年が、賢者様に小麦粉を配達。袋の数は三つ。これは何らかの暗号か? 時刻と共に記録せよ」
「目標『リア』、裏口より入店を確認。時刻、夜八時。周辺警戒レベルを最大に引き上げよ。賢者様と密議の時間だ」
彼らは、エルリックの極めて平凡な日常を、超人的な賢者の深遠な活動として、一挙手一投足、真剣に記録し、分析していた。
おかげで、ギデオンが放った第二、第三の密偵たちは、誰一人として店の百メートル以内に近づくことすらできず、恐慌状態に陥って王都へと逃げ帰ることになる。
そんな絶対的な安全が確保されていることなど露知らず、エルリックとリアーナは、研究に一つの光明を見出していた。
彼らが解読していたのは、『魂の器』計画に関する、一人の研究者の日誌だった。
「……あった!」
エルリックが、声を上げた。
「見てください、リアさん。この部分です」
彼が指し示した羊皮紙には、リアーナの聖遺物とよく似た装置の、詳細な設計図が描かれていた。そして、そこにはこう記されていた。
『……被検体保護のため、エーテル抽出効率には、五段階のリミッターを設置。通常時は第一段階で作動。緊急時には、外部より特定の魔力波長を持つ『調律器』を接触させることで、全ての機能を一時的に停止させることが可能……』
「調律器……!」
リアーナが、息を呑む。
「ええ。つまり、この装置には、強制的に機能を停止させるための、いわば『安全装置』が存在するようです。もし、その『調律器』を見つけることができれば……!」
それは、呪物を破壊することなく、リアーナの命を救えるかもしれない、という大きな可能性を示すものだった。もちろん、『調律器』がどんな物で、どこにあるのか、全く分からない。だが、目的は明確になった。
「ありがとう……」
リアーナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、絶望の涙ではない。何年もの間、忘れていた、希望の涙だった。
「本当に、ありがとう、エルリック。あなたがいなければ、私はとっくに、諦めていたわ」
彼女の心からの感謝の言葉に、エルリックは照れくさそうに頭を掻いた。
「まだ、何も解決していませんよ」
「ううん。あなたは、私の心を救ってくれた」
ランプの頼りない光が、地下室の二人を静かに照らす。
外では、王国最強の騎士たちが、賢者の眠りを妨げぬよう、静かに夜の闇に目を光らせていた。
エルリックは、自分の人生が、望んだものとは全く違う方向へ、猛スピードで突き進んでいることを自覚していた。
だが、その中心にある、この温かい充実感は、決して悪いものではないなと、彼は素直に思うのだった。




